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折口信夫 三郷巷談」(2007/05/06 (日) 09:06:47) の最新版変更点

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<?xml version="1.0" encoding="Shift_JIS"?> <!DOCTYPE html PUBLIC "-//W3C//DTD XHTML 1.1//EN" "http://www.w3.org/TR/xhtml11/DTD/xhtml11.dtd"> <html xmlns="http://www.w3.org/1999/xhtml" xml:lang="ja" > <head> <meta http-equiv="Content-Type" content="text/html;charset=Shift_JIS" /> <meta http-equiv="content-style-type" content="text/css" /> <link rel="stylesheet" type="text/css" href="../../default.css" /> <title>折口信夫 三郷巷談</title> <link rel="DC.Schema" href="http://purl.org/dc/elements/1.1/" /> <meta name="DC.Creator" content="折口信夫" /> <meta name="DC.Publisher" content="青空文庫" /> </head> <body> <h1 class="title">三郷巷談</h1> <h2 class="author">折口信夫</h2> <div class="main_text"> <br /> <br /> <br />        一 <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">もおずしやうじん</em><br /> 泉北郡<ruby><rb>百舌鳥</rb><rp>(</rp><rt>モズ</rt><rp>)</rp></ruby>村大字百舌鳥では、色々よそ村と違つた風習を伝へてゐた。其が今では、だん/\平凡化して来た。此処にいふ<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">もおずしやうじん</em>の如きは、殊に名高いものになつて居た。<br /> 此村には<ruby><rb>万代</rb><rp>(</rp><rt>モズ</rt><rp>)</rp></ruby>八幡宮といふ、堺大阪あたりに聞えた宮がある。其氏子は、正月三个日は、たとひどんな事があつても、肉食をせないで、<ruby><rb>物忌</rb><rp>(</rp><rt>モノイ</rt><rp>)</rp></ruby>みにこもつた様に、慎んでゐなければならぬので、堺あたり(堺市へ廿町)へ奉公に出てゐるものは、三个日は、必在処に帰つて、ひきこもつて精進をする。此村から出る奉公人は、目見えの際、きつと正月三个日藪入りの事を条件として、もち出す事になつてゐた。処が、村へ戻れぬ様な事でもあると、主家にゐて、精進を厳かに保つてゐる。労働者なんかで、遠方へ出稼ぎに行つてるものも、やはり、所謂其<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">もおずしやうじん</em>を実行したものだ。でなければ、冥罰によつて、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">かつたい</em>(癩病)になる、といふ信仰を持つてゐたのである。<br /> <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">もおずしやうじん</em>は、三个日は無論厳かに実行するのだが、其数日前から、既に、そろ/\始められるので、年内に<ruby><rb>煤掃</rb><rp>(</rp><rt>スソハ</rt><rp>)</rp></ruby>きをすまして、餅を搗くと、すつかり精進に入る。来客があつても、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">もおずしやうじん</em>のなかまうちである村の人は、なるべくは、<ruby><rb>座敷</rb><rp>(</rp><rt>オイヘ</rt><rp>)</rp></ruby>にも上げまいとする。縁台を庭に持出して、其に客を居させて、大抵の応待は、其処ですましてしまふ。<br /> 三个日の間は、村人以外の者と、一つ火で煮炊きしたものを食はない。それから、此間は、男女のかたらひは絶対に禁ぜられてゐるので、もし犯す事もあつてはといふので、一家みな、一つ処にあつまつて寝る。そして、三日の夜に入つて、はじめて精進を落す事になつてゐる。家によると、よそ村から年賀に来る客の為に、酒肴を用意して置いて、家族は一切別室に引籠つてゐて、客に会はない。そして、客が勝手に、酒肴を喰べ酔うて帰るに任せてあつた、とも聞いてゐる。近年は徴兵制度の為に、軍隊に居る者が三个日の間に肉食をしても、別に異状のないことやら、どだい、だん/\不信者の増した為に、厳重には行はれない様になつたさうである。<br /> 此風習の起原は、両様に説明せられてゐる。一つは、此村は<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">かつたい</em>が非常に多かつたのを、八幡様が救つて下さつた。其時の誓によつて、正月三个日は精進潔斎をするのだといふ。今一つは、ある時、弘法大師が此村に来られた処が、村は非常に水が悪かつたので、水をよくして下さつた。其時村人は、水を清くして貰ふ代りに、正月三个日は精進潔斎をいたしますと誓つた。其時、証拠人として立たれたのが、万代八幡様であつたとも伝へて居る。<br />        二 あはしま<br /> どこともに大同小異の話を伝へてゐる<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">あはしま</em>伝説を、とりたてゝ言ふほどの事もあるまいが、根源の淡島明神に近いだけに、紀州から大阪へかけて拡つてゐる形式を書く。<br /> 加太(紀州)の淡島明神は女体で、住吉の明神の奥様でおありなされた。処が、<ruby><rb>白血長血</rb><rp>(</rp><rt>シラチナガチ</rt><rp>)</rp></ruby>(<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">しらちながし</em>などゝもいふ)をわづらはれたので、住吉明神は穢れを嫌うて表門の扉を一枚はづして、淡島明神と神楽太鼓とを其に乗せて、前の海に流された。其扉の船が、加太に漂着したので、其女神を淡島明神と崇め奉つたのだ。其で、住吉の社では今におき、表門の扉の片方と神楽太鼓とがないと言ふ。此は淡島と蛭子とを一つにした様に思はれる。しかし或は、月読命と須佐之男命と形式に相通ずる所がある様に、淡島・蛭子が素質は一つである事を、暗示するものかも知れない。<br /> 処で、此処に、も一つおもしろい事がある。其は、住吉につゞく堺の朝日明神の社に就ても、同様形式を伝へてゐる事である。白血長血、扉の件は同じで、海に放たれたのを朝日明神様であるといふ。神楽太鼓の件は、此方の話にはあるかないか断言しかねる。七月三十日(昔は大祓の日)には、堺の宿院の御旅所へ住吉の神輿の渡御がある。其をり、神輿が堺の町に這入ると、本道の紀州海道は行かないで、わざ/\海岸を迂回して、御旅所に達する。此は、神明の社が紀州海道に面してゐる(宿院行宮も同様海道に面し、神明社の南十町ほどに在る)ので、神明様の怨まれるのを恐れて、避けられるのだと言ふ。此日、朝日明神の社では、住吉の神輿が新大和川を渡つて、堺の町に這入られるから、宿院に着かれるまで、太鼓をうちつゞけに打つ事になつてゐる。此は、神明様の嫉妬・怨恨の情を表象するものだと伝へる。<br />        三 <ruby><rb>南</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>ぬけの<ruby><rb>御名号</rb><rp>(</rp><rt>ミミヤウガウ</rt><rp>)</rp></ruby><br /> 木津には、七軒の旧家があつた。願泉寺門徒が、石山本願寺の為に死に身になつて、織田勢と戦つた功に依つて、各顕如上人から苗字を授けられたと伝へ、雲雀のやうに、空まで舞ひ上つて、物見をしたので<ruby><rb>雲雀</rb><rp>(</rp><rt>ヒバル</rt><rp>)</rp></ruby>、上人紀州落ちの手引きをして、海への降り口を教へた処から<ruby><rb>折口</rb><rp>(</rp><rt>ヲリクチ</rt><rp>)</rp></ruby>、其節、莚帆を前にして、匿して遁げたのが<ruby><rb>莚帆</rb><rp>(</rp><rt>ミシロボ</rt><rp>)</rp></ruby>だなどゝ云ふ話を聞かされてゐた。<br /> 其中の雲雀氏は、代々の通称が五郎左衛門で、其苗字の外に、六字の名号を布に書いたのを頂戴して、永く持ち伝へ、家に法事のある毎に、人に拝ませてゐたが、此御名号には唯「無阿弥陀仏」の五字だけしか無かつた。何代目かの五郎左衛門が、放蕩から此宝物を質屋の庫に預け、後に此を受出して見ると、南の一字が消えて了うてゐたので「<ruby><rb>南</rb><rp>(</rp><rt>ナ</rt><rp>)</rp></ruby>ぬけの<ruby><rb>御名号</rb><rp>(</rp><rt>ミミヤウガウ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称して、恐しく神聖な物と考へられて居た。近年はどういふ折にも見せぬ様になつた。<br />        四 算勘の名人<br /> 此は何処からどうして来た人とも、今以て判然せぬが、安政の大地震の時の事である。大阪では地震と共に、小さな<ruby><rb>海嘯</rb><rp>(</rp><rt>ツナミ</rt><rp>)</rp></ruby>があつて、木津川口の泊り船は半里以上も、狭い水路を上手へ、難波村<ruby><rb>深里</rb><rp>(</rp><rt>フカリ</rt><rp>)</rp></ruby>の加賀の屋敷前まで、押し流されて来た時の話である。木津の<ruby><rb>唯泉寺</rb><rp>(</rp><rt>ユヰセンジ</rt><rp>)</rp></ruby>(大谷派)の本堂が曲つて、棟の上で一尺五寸も傾いた。其節誰かゞ<ruby><rb>十露盤</rb><rp>(</rp><rt>ソロバン</rt><rp>)</rp></ruby>の名人と云ふ人を一人連れて来て、此を見せると、即坐に、此堂を真直ぐにしよう、と請合うた。さて、自分が堂の中で為事をしてゐる間は、一人も境内に居てはならぬ、と戒めて置いて、自分一人中に入り、門を<ruby><rb>鎖</rb><rp>(</rp><rt>シ</rt><rp>)</rp></ruby>め、本堂の<ruby><rb>蔀</rb><rp>(</rp><rt>シトミ</rt><rp>)</rp></ruby>までも下して、堂内に静坐し、十露盤を控へて、ぱち/\と数を<ruby><rb>詰</rb><rp>(</rp><rt>ツ</rt><rp>)</rp></ruby>めて行つたさうだ。すると、段々、其が熟して来たと見えて、外から見てゐると、ぎい/\と音がして、棟も柱も真直ぐに起き直つた、と云ふ事である。現に、此を見て居つたといふ人が、何人か今も居る。<br />        五 樽入れ・棒はな<br /> 木津では<ruby><rb>若</rb><rp>(</rp><rt>ワカ</rt><rp>)</rp></ruby>い<ruby><rb>衆</rb><rp>(</rp><rt>シユ</rt><rp>)</rp></ruby>の団体たる<ruby><rb>若中</rb><rp>(</rp><rt>ワカナカ</rt><rp>)</rp></ruby>の上に、<ruby><rb>兄若</rb><rp>(</rp><rt>アニワカ</rt><rp>)</rp></ruby>い<ruby><rb>衆</rb><rp>(</rp><rt>シユ</rt><rp>)</rp></ruby>と云ふ者があつた。<ruby><rb>若中</rb><rp>(</rp><rt>ワカナカ</rt><rp>)</rp></ruby>に居た時から人望があつた者が、若い衆の<ruby><rb>胆煎</rb><rp>(</rp><rt>キモイリ</rt><rp>)</rp></ruby>をするので、其等の家が、年番に「宿」と称して、若い衆の集会所になつたものであつた。<br /> 此<ruby><rb>兄</rb><rp>(</rp><rt>アニ</rt><rp>)</rp></ruby>若い衆は、すべて、若中を心の儘に左右し、随分威張つてゐた。祭りが近くなると、町々の「宿」の表には、四尺四方ぐらゐな四角の枠の中に、一本隔てを入れたのに、大きな御神燈を<ruby><rb>二張</rb><rp>(</rp><rt>ふたはり</rt><rp>)</rp></ruby>括り附けて、軒に懸けてゐた。<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">だいがく</em>に出る揃への衣裳の浴衣地は、此処で分けてくれた事を覚えてゐる。此処は若中の策源地なので、余程こはもてのしたものであつた。<br /> <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">ばうた</em>の哀訴も、此処へ提出せられる事が多かつた。町内の豪家に婚礼があると、此処に集る若い衆が、おめでたのある家の表へ空樽を積み込む。さうして、一挺幾らづゝかの勘定で、祝儀の金を乞ふ。其が憎まれてゐる家である時は、空樽の山を築き、驚くべき入費を掛けさせて、痛快とする。<br /> 若しまた、若中或は兄若い衆の怨を買うた節には大変で、更に、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">ばゞかけ</em>と称する野臭の漲つた挙に出る。其は、<ruby><rb>肥桶</rb><rp>(</rp><rt>コエタゴ</rt><rp>)</rp></ruby>を宴席に担ぎ込んで、畳の上にぶちまけるので、其汚物の中には蛙・蟇などが数多く為込んであつて、其がぴよん/\跳ね廻つて、婚礼の席をめちや/\にする。十四五年前、木津から<ruby><rb>半里</rb><rp>(</rp><rt>ハンミチ</rt><rp>)</rp></ruby>ばかり隔たつた<ruby><rb>津守新田</rb><rp>(</rp><rt>ツモリシンデン</rt><rp>)</rp></ruby>の某家から、他村へ輿入れの夜、嫁御寮を始め一同、<ruby><rb>十三間堀</rb><rp>(</rp><rt>ジフサンゲンボリ</rt><rp>)</rp></ruby>といふ川を下つて了うた処が、土橋の上に隠れてゐた津守の若い衆が、其船目掛けて、肥桶をぶちまけたので、急に、婚礼の日取りを換へた、と云ふ話もある。<br /> 若中の権威は、啻に婚礼の晩に発揮するばかりではなかつた。祭りの際には、兼ねて憎んでゐる家に、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">棒はな</em>といふ事をする。此は、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">だいがく</em>の<ruby><rb>舁</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>き棒を其家の戸なり壁なりに撞き当てる方法で、何しろ恐しい重量を棒鼻に集中して打ち当てるのだから、<ruby><rb>堪</rb><rp>(</rp><rt>タマ</rt><rp>)</rp></ruby>つたものではなかつたさうである。<br />        六 執念の<ruby><rb>鬼灯</rb><rp>(</rp><rt>ホヽヅキ</rt><rp>)</rp></ruby><br /> 「<ruby><rb>五大力恋緘</rb><rp>(</rp><rt>ゴダイリキコヒノフウジメ</rt><rp>)</rp></ruby>」に哀れな物語りを伝へた、曾根崎新地の菊野の殺された茶屋は、今年五十六になる私の母が、子供の頃までは残つて居たさうだ。芝居で見て知るよりも以前から、既に、私等は此話を聞いてゐた。其は曾祖母から口移しの話で、菊野が鬼灯を含んで鳴して居る処へ、源五兵衛(仮名)が来て、斬り殺したと云ふ事で、其執念が残つて、其茶屋の<ruby><rb>縁</rb><rp>(</rp><rt>エン</rt><rp>)</rp></ruby>の下には、今でも鬼灯が生えるといふ物語りを、母が其まゝ、私等に聞かせた。子供の時分は、北の新地へさへ行けば、何時でも、菊野のかたみの鬼灯が見られるものと信じて居た。<br />        七 六部殺し<br /> 熊野<ruby><rb>八鬼</rb><rp>(</rp><rt>ヤキ</rt><rp>)</rp></ruby>山の順礼殺しの<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">からくり唄</em>に、云ひ知らぬ恐怖を<ruby><rb>唆</rb><rp>(</rp><rt>ソヽ</rt><rp>)</rp></ruby>られた心には、この大阪以外には、こんな鬼の住み処も有ることか、と思うてゐたのに、其大阪も<strong class="SESAME_DOT">とつと</strong>のまん中、島の内にも有つたのだとは、此頃始めて、教へ子梶喜一君から聞き知つた。而も、其家の名まで明らかに知れてゐるのは、何だか田園都市の匂ひを感ぜずには居られぬ。<br /> 南区三丁目の沖田といふ家は、今はすべて死に絶えて、唯一人残つた老婆が、天王寺辺で寂しく御迎へを待つてゐるといふ。御一新騒ぎの当時、此家へ一夜の宿りを求めた六部があつた。処が、其翌日、彼が立つて行く影も形も見た者が無いのに、其姿は其儘消えて了うた。其後、何処から得た資本ともなく、<strong class="SESAME_DOT">たんまり</strong>とした金が這入つた模様で、色々の事に手を出し、とん/\拍子で指折りの金持ちになつたが、どうも不思議だ、といふ<ruby><rb>取沙汰</rb><rp>(</rp><rt>トリサタ</rt><rp>)</rp></ruby>の最中に、主人が死に、息子が死にして、殆ど枝も幹も残らぬ様に、亡びて了うた。長堀から<ruby><rb>鰻谷</rb><rp>(</rp><rt>ウナギダニ</rt><rp>)</rp></ruby>へかけて、沖田の六部殺しと言うて、因果の恐しさを目前に見た様に噂した事であつた。<br />        八 日向の炭焼き<br /> <ruby><rb>難波</rb><rp>(</rp><rt>ナンバ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>土橋</rb><rp>(</rp><rt>ドバシ</rt><rp>)</rp></ruby>(今の<ruby><rb>叶橋</rb><rp>(</rp><rt>カナフバシ</rt><rp>)</rp></ruby>)の西詰に、ヽヽといふ畳屋があつた。此家は古くから、日向に取引先があつたと見えて、土橋の下には、度々日向の炭船が著いてゐたさうである。其炭船が日向へ帰つた後では、きつと行方知れずになる子供が尠からずあつたといふ。此は、畳屋が子供を盗んで、日向へ炭焼きに遣るのだ、といふ評判であつた。其で、私等の子供の頃にも、どうかした折には、土橋の畳屋へ遣ると嚇されたものである。<br />        九 しゃかどん<br /> 大阪府三島郡<ruby><rb>佐位寺</rb><rp>(</rp><rt>サヰデラ</rt><rp>)</rp></ruby>に「つの」とも「かど」とも訓む字と、其第三の<ruby><rb>訓</rb><rp>(</rp><rt>クン</rt><rp>)</rp></ruby>とを用ゐて、家の名とした一家がある。其一門は、男女と言はず、一様に青黒い濁りを帯びた皮膚の色をしてゐるので、古くから<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">釈迦どん</em>と言うてゐる。唯の黒さでなく、異様な煤け方である。其家の持ち地であつて、今は他家の物となつたと言ふ、村の山地には、釈迦个池と言ふ池がある。<br />        一〇 夙村<br /> 河内の夙村では、村をとりまく濠やうの池のある事は、郷土研究にも見えた。但、其池はすべて、への字なりになつて居るといふ。<br />        一一 ゆんべ<br /> 昨晩と言ふ語をば冒頭に据ゑた唄を、二つ報告する。但、二つとも末を忘れた。可なりな老人に聞いても知らぬ。要点は頭の方にある様だから書く。<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> ゆんべ生れたくまちやんは、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">じより/\</em>(月代)剃つて、髪結うて、そろばん橋を渡ろとて、蟹にちんぽ(きんたま)をはそまれて、あいたい、こいたい。<ruby><rb>権兵衛</rb><rp>(</rp><rt>ゴンベ</rt><rp>)</rp></ruby>さん。此身を助けてくださんせ。……<br /> ゆんべ吹いた風は大津へ聞えて、大津はおんま(御馬か)<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">つちのこ</em>は槍持ち、<ruby><rb>能</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>う槍持つて。……<br /> </div> 前のは、川村氏の「さいごたかもり、はじめて東へ下るとて、蟹にきんたま挟まれて(郷土研究四の七)」に似て居り、後のは、南方氏の田辺へ聞えた、又は西の宮へ聞えたの唄(同一の二)と同じ趣きである。<br />        一二 うしはきば<br /> 此は、美濃路から東方に亘つてゐると思はれる、馬捨て場と同じ意味の場処である。多くは池の堤や、村から入りこんだ小川の岸などで、大抵人の行かぬ場所にあつた。わりあひに神聖な処と考へられてゐる様である。死んだ牛の皮を剥ぐ場処の意で、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">はき</em>を清音に言ふ。河内辺に多い地名である。牛を剥ぎにはえたが来て、皮・肉などは貰うて帰るのださうである。馬を使ふ農家はないから、一村の為事に、馬といふ考へは這入つてゐないのである。<br />        一三 名字<br /> 木津・難波には、<ruby><rb>本</rb><rp>(</rp><rt>モト</rt><rp>)</rp></ruby>と言ふ字のつく姓がある。樽屋が樽本、下駄屋が桐本、材木屋が木元など、皆、其商品を此が資本だ、と言ふ積りで拵へたのである。此は木津に多い。<br /> 妙玄・法覚・法西・覚道など言ふのは、難波に沢山ある名字で、戸主が本願寺の<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">おかみそり</em>を頂く節、貰うた法名を、そのまゝつけたのである。その中、会所であつたのをもぢつて改正、商買の質をわけて<ruby><rb>竹貝</rb><rp>(</rp><rt>タケガイ</rt><rp>)</rp></ruby>・<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">からや</em>と言ふ屋号を、<ruby><rb>唐谷</rb><rp>(</rp><rt>カラタニ</rt><rp>)</rp></ruby>としたのなどは、秀逸の部である。旧来の通称の儘のは、<ruby><rb>茶珍</rb><rp>(</rp><rt>チヤチン</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>徳珍</rb><rp>(</rp><rt>トクチン</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>鈍宝</rb><rp>(</rp><rt>ドンボオ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>道木</rb><rp>(</rp><rt>ドオキ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>綿帽子</rb><rp>(</rp><rt>ワタボオシ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>仕合</rb><rp>(</rp><rt>シヤワセ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>午造</rb><rp>(</rp><rt>ゴゾオ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>宝楽</rb><rp>(</rp><rt>ホオラク</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>雷</rb><rp>(</rp><rt>カミナリ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>鳶</rb><rp>(</rp><rt>トビ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>鍋釜</rb><rp>(</rp><rt>ナベカマ</rt><rp>)</rp></ruby>などいふ、思案に能はぬのもある。<br /> <ruby><rb>南波屋</rb><rp>(</rp><rt>ナンバヤ</rt><rp>)</rp></ruby>が南波、木津<ruby><rb>屋</rb><rp>(</rp><rt>ヤ</rt><rp>)</rp></ruby>が<ruby><rb>木津谷</rb><rp>(</rp><rt>キヅタニ</rt><rp>)</rp></ruby>になつたのは普通だが、摂津・丹波の山間十石から出て来て、屋号とした<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">じゅっこく</em>を名字にしてから、俄かに幾代か前に、十石米を貧乏人に施した善根者があつたので、十石で通ることになつたのだ、と由緒を唱へ出した家もある。皆恐らくは、親類会議や、役場の役人の意見を借りたのであらうが、妙な名字を持つた家の子どもは、大困りである。「茶珍ちやあ(茶)沸せ」「徳珍とっくりぶち破つた」「宝楽(炮烙)わったら元の土」などゝ、小学生仲間から、始終なぶられてゐた。<br /> 由緒を誇る<ruby><rb>雲雀</rb><rp>(</rp><rt>ヒバル</rt><rp>)</rp></ruby>(「折口といふ名字」参照)も、一歩木津の地を出ると、気恥しいと見えて、中学へ行つた一人は、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">うんじゃく</em>と音読をしてゐた。<ruby><rb>道木</rb><rp>(</rp><rt>ドオキ</rt><rp>)</rp></ruby>の方も、重箱訓みを恥ぢて、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みちき</em>と言うてゐた。<br />        一四 人なぶり<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> はげ八聯隊、横はげ(又、単に横)四聯隊。<br /> はげ山鉄道(てつと)道、汽車すべる。<br /> </div> 散文的な文句だが、音勢を揺ぶる様に強く謡うて、くやしがらせる。又<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みっちゃ</em>面(あばた)には、<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">へんば</em>(<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みっちゃ</em>の一名。南区船場の口合ひ)火事<ruby><rb>発</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>て、みっちゃくちゃ(むちゃくちゃを綟る)に焼けた。<br /> </div> <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みっちゃ</em>を更に、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みっちゃくちゃ</em>とも言ふのである。<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みっちゃ</em>/\、どみっちゃ。ひきずり<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">みっちゃ</em>引っぱった。ひっぱったら切れた。切れたら、つないだ。<br /> </div> <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">へんば</em>は少し下卑た言ひ方である。<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">ひきずりみっちゃ</em>は、<ruby><rb>痘痕</rb><rp>(</rp><rt>アナ</rt><rp>)</rp></ruby>の続いてゐる旁若無人な<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">あばた</em>面を言ふ。獰猛な顔つきは、子どもの憎悪を唆ると見えて「みっちゃ/\」の唄なども、其では<ruby><rb>慊</rb><rp>(</rp><rt>あきた</rt><rp>)</rp></ruby>らぬか「ど、ど(又「ど※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、129-15]</span>ど」)みっちゃ……」と憎さげに言ひかへる事もある。<ruby><rb>跛足</rb><rp>(</rp><rt>チンバ</rt><rp>)</rp></ruby>を罵る時にも、同様「ち※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、129-16]</span>ば/\。どち※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、129-16]</span>ば」と謡ふ。<br /> 文句は確か、此ぎりの短いものであつた。其外<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">か※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、129-17]</span>ち</em>(か清音)<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">めくら</em>などを嬲る文句も、あつた様だが忘れた。<br /> <ruby><rb>下水道</rb><rp>(</rp><rt>スヰド</rt><rp>)</rp></ruby>にはまるとか、糞を踏むとか、泥を握るとかした時は「<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">びゞ※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-2]</span>ちょ</em>にさぁ(<ruby><rb>触</rb><rp>(</rp><rt>サハ</rt><rp>)</rp></ruby>)ろまい。石・金踏んどこ(<で置かう)」又は「石・金持っとこ」と言ふ。<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">びゞ※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-3]</span>ちょ</em>は穢れた人と言ふ意。かう謡ひながら、石なり、釘なり、雪駄の裏金なりを、道ばたで拾うて持つ。<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">びゞ※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-4]</span>ちょ</em>と言はれた子は、やつきになつて、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">びゞ※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-5]</span>ちょ</em>をうつさ(伝染)うとする。石・金を持たぬ子は、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">びゞ※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-5]</span>ちょ</em>になつて了ふので、石・金を持つてゐる中は、穢れが移らぬのである。裏金のついた雪駄をはいた者は、どんな事があつても、<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">びゞ※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-7]</span>ちょ</em>の仲間入りはせぬ。人なぶりから、遊戯に近くなつてゐる。<br /> 遊んでゐて、泣くと「泣きみそきみそ」と言ふ。喧嘩に負けたり、虐められた子供の親がおこりに出ると、<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> 子どもの喧嘩に親出すな。親があきれて、ぼゞ出すな。<br /> </div> 人の顔を見つめると「人の顔見る<ruby><rb>者</rb><rp>(</rp><rt>モン</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>飯</rb><rp>(</rp><rt>マヽ</rt><rp>)</rp></ruby>粒・小つぼ」と言ふ。名前をよみ込む文句では古いのは、<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> <ruby><rb>信</rb><rp>(</rp><rt>ノブ</rt><rp>)</rp></ruby>こ。のったらの※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-13]</span><ruby><rb>十郎</rb><rp>(</rp><rt>ジユウラウ</rt><rp>)</rp></ruby>。のらのっち※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-13]</span>ぺぇら(<em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">ぽいら</em>とも)。<br /> 勝こ。かったらか※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-14]</span>十郎。からかっち※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、130-14]</span>ぺぇら。<br /> </div> 幾分新しいのでは、<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> 寅こ。とっと言へ。とりき、とゝりき、とやまのとんのくそ。<br /> <ruby><rb>清</rb><rp>(</rp><rt>キヨ</rt><rp>)</rp></ruby>こ。きっと言へ。きりき、きゝりき、きやまのきんのくそ。<br /> </div> など名がしらの音を、頭韻(ありたれいしよん)に挿んで、誰にでも当てはめる。又、<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> せいやん<ruby><rb>雪隠</rb><rp>(</rp><rt>センチ</rt><rp>)</rp></ruby>で、ばゝ(糞)こ(泌)いて、まっちゃん松葉で掻きよせて、たぁやんた※<span class="notes">[#小書き平仮名ん、131-2]</span>ご(たご——角桶)で汲みに来て、みいちゃん見に来て臭かつた。<br /> </div> 清造とか、松太郎とか、辰三・簑吉とか、名がしらの、此歌の中にあるものが一人でもあると、謡うて悔しがらせる。何でもない事の様で、讒訴に堪へられぬ憤懣を感じたものである。男の子と女の子とが遊んでゐると、<br /> <div class="jisage_2" style="margin-left: 2em"> 男とをなごとあすばんもん(物)。<ruby><rb>一間</rb><rp>(</rp><rt>イツケン</rt><rp>)</rp></ruby>まなかに(の?)疵がつく。<br /> </div> 又「男とをなごときっきっき」。痛いと叫ぶと「いたけりや、鼬の糞つけい」と言ふ。<br />        一五 <em class="underline_solid" style="text-decoration: underline; line-style: solid">らつぱ</em>を羨む子ども<br /> 十年程<ruby><rb>此方</rb><rp>(</rp><rt>このかた</rt><rp>)</rp></ruby>、時々、子どもの謡ふのを聞く。軍人や、洋服を着た学生を見ると「へえたいさん。ちんぽと喇叭と替へてんか」と言ふ。二十年前に子どもであつた私らの知らぬ、軍人羨望或は崇拝である。大正二年、阿蘇山を越して、豊後の竹田辺でも、此歌を旅姿の我々に、女の子の謡ひかけたのを聞いた。勿論、女の子の物をよみ入れてゐた。<br /> <br /> <br /> <br /> </div> <div class="bibliographical_information"> <hr /> <br /> 底本:「折口信夫全集 3」中央公論社 <br />    1995(平成7)年4月10日初版発行<br /> 底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店<br />    1930(昭和5)年6月20日<br /> 初出:「郷土研究 第二巻第一号」<br />    1914(大正3)年3月<br />    「郷土研究 第四巻第七号」<br />    1916(大正5)年10月<br />    「土俗と伝説 第一巻第一号」<br />    1918(大正7)年8月<br />    「土俗と伝説 第一巻第三号」<br />    1918(大正7)年10月<br /> ※底本の題名の下に書かれている「大正三年三月・五年十月「郷土研究」第二巻第一号・第四巻第七号。大正七年八・十月「土俗と伝説」第一巻第一・三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。<br /> 入力:門田裕志<br /> 校正:仙酔ゑびす<br /> 2007年4月8日作成<br /> 青空文庫作成ファイル:<br /> このファイルは、インターネットの図書館、<a href="http://www.aozora.gr.jp/">青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)</a>で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。<br /> <br /> <br /> </div> <div class="notation_notes"> <hr /> <br /> ●表記について<br /> <ul> <li>このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。</li> <li>[#…]は、入力者による注を表す記号です。</li> <li>「くの字点」は「/\」で表しました。</li> <li>傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。</li> <li>この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。</li> <br /> <br /> <table> <tr> <td> 小書き平仮名ん </td> <td>&nbsp;&nbsp;</td> <td> 129-15、129-16、129-16、129-17、130-2、130-3、130-4、130-5、130-5、130-7、130-13、130-13、130-14、130-14、131-2 </td> <!-- <td>   <img src="../../../gaiji/others/xxxx.png" alt="小書き平仮名ん" width=32 height=32 /> </td> --> </tr> </table> </ul> </div> </body> </html>

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