作者:グリム
タイトル:狩猟者―×××―
人は神に並ぶ事はできぬ。
故に人は神に平伏して戦う。
人は人を超える事ができる。
故に超人は人に勝る事はできぬ。
下のものは上のものの如く、上のものは下のものの如し。
しかし枠の違うモノは上に立ちぬ。
約束の日、樫月は約束通りの時間にやってきた。
「よっす海晴。持って来たぜ」
手には……ガタイの良い樫月でも両手で抱えないともてないほど巨大な土鍋だった。何人分だろうか。むしろ、どんだけ食うつもりだろうか。食料は足りるのだろうか。と言うか、玄関につっかえて入れてない。
どうするか。
「なー、海晴ー、手伝ってくれね?」
「玄関壊すなよ」
踵を返して捨て置く。樫月のことだから何とかするだろう。これは信用であって決して樫月を見捨てたわけではない。などと自分に嘘をついて冷蔵庫の前に立つ。開けてみる。ギリギリ、だろうか。
……姉貴、樫月、それから……樋沼さん来るだろうし。樋沼と樫月はめちゃくちゃ食うだろうし。
肉が心許ない。
「か、樫月君! さすがに縦にしないで強行突破すると割れちゃうよ!」
「止めるな穂積! 男にはやらなきゃならない時が――」
ねぇよ。少なくとも今では無いだろう、ウド大木め。
取り合えず玄関の方は放って置くとして穂積さん追加か。でも穂積さんは体型からして背も低いし痩せてるし、問題ないだろう。姉貴は普通の量しか食べない。ネックはやはりあいつと樋沼さんか。
肉は……精肉店が一つなくなったから、少し遠くに買いに行かないといけない。その事を思い出したら二重で暗くなった。しかし考えを振り払って近場の店を考える。やはり花村マーケットが一番近いか。もう夕方過ぎだし、安くなっている時間帯だろう。財布を探し出して準備する。早くしないと暗くなる。
玄関まで行くと、必死で樫月の袖を引っ張る穂積さんと、意地でも横のままで土鍋を玄関に通そうとする樫月が居た。
「樫月。ちょっと肉買ってくるから待っててくれ」
「ん? ああ、行ってらっしゃい」
……
「どうした? 買いに行くんじゃないのか?」
……こいつは。
「どけ」
未だにつっかえて邪魔な樫月を蹴って退け、買い物に向かった。
外は寒い。コートを着た上で手袋、マフラーを完全武装してもまだ寒い。今冬の冷え込みは例年以上らしい。だけどあの日以降、雪が降ってない。風だけの寒さはどうにも好きになれないし――やけに殺風景だ。
見上げる空は灰色。降りそうで降らない。
白い息を吐き出してから、暗くなった路地を見据える。自転車で来たほうが良かっただろうか。でも自転車で走るとこの寒さは中々に厳しい。止めた足を再び進める。車が音を立てて風を巻いて横切っていく。
騒音と静寂。
花村マーケットに向かう道は大通りとは言い難いし、人通りも少ない。
不安に感じてコートの中からポケットからベニイシを取り出そうとするが、そこには何も入ってない。気が緩んでいたのか……不安が大きくなる。
そこまで考えて、アヤメの事を思い出した。
声は掛けたけど……今日、アヤメは来るのかな。
『ありがと。余裕があったらね』
何となく、危うい雰囲気がした返答。少しだけの不安と、アヤメへの心配。
――と、パトカーが後方から走り抜けていった。サイレンの音が遠ざかっていく。姉貴、本当に来れるのかな。 もしかしたら急な仕事が入って来れなくなるかもしれないなあ。少し心配だ。
花村マーケットが見えてきた。
買うものを頭の中で考えながら歩く。それだけで足りるのだろうか、しかし金額的には……
「樫月、絶対遠慮しないだろうからな……」
金は姉貴からいつもより多めに貰ったけど、あんまり楽観できない。あまり際限なく買わずに、できるだけ抑えて買っておこう。決意を固めてからマーケットの中に入る。
すれ違いに同じ年齢くらいの髪の短い少女が横を通り過ぎた。
見たことがあるような気がして振り返る。少女は小柄な少年と合流して、一緒に去って行く。学校の生徒だったかな、なんてことを考えて、そんな時、少年の方がこちらを振り返った。
目が合ったような気がして、立ち止まる。
少年は、三日月のような笑みを浮かべて少女と並んで歩き出す。
××××××。
気がつくと、握り締めた掌、手袋にじっとりとした汗が染みていた。早鐘を打つ心臓、呼吸も乱れる。
「ハ……ァ」
吐いた息は白く濁り、消えてゆく。悪夢のような衝動は消えて、少年も少女も視界から消えていた。早く買い物を済ませて帰ろう。あまり今日は良い夜では無い。早く帰ろう。
締め付けるような頭痛を堪えて、僕は歩き出す。
――時は少し遡る。
彼女の時へと摩り替わる。
異変を感じたのは昼休みの事だった。いつものように寒い屋上で獲物を探していると、学園の様子に違和感を感じた。学園には退魔士が数人居る。だからこそ見逃しそうになった。たまに学園の退魔士は術式を行使するが、これは違うものだ。
屋上から周りに視線を巡らせる。違和感は術によって探知できるものではなく、ほぼ勘に任せた憶測だ。
場所は中庭。行使されているのは人払いってとこか。
手甲を右腕に嵌めて術式を起動する。探索、検索、糸、土、龍脈、解読。
「式名、五行――土遁、龍脈ノ読ミ解キ」
汲み上げた魔力を手甲の術式を通して不可視の糸に変換して中庭に走らせる。結界を読み解き、術者やその付近で動く物体の位置を特定するための術式だが、位置の特定どころか、結界の正確な機能すら読み解く事ができない。
おかしいな。
この術式は確かに上等なものではないが、それでも簡単な結界なら読み解く事ができる。となると、これは。
「探知妨害の呪いか――理解の外、か」
面白いじゃないか。前者ならば術士。後者なら――獲物だ。それも上等な。
刀の柄を握り、自分の姿を短時間知覚の外にする術式を張る。こうすれば刀と手甲を装備しても学園内を歩き回る事ができる。しかし効率の悪い術式だ、五分以上の稼動は戦闘にも支障をきたす。
が――十分だ。結界も“相手”が用意してくれている。もし罠ならば食い破る。
湧き上がる笑いを抑え、非常階段を下りようとして、止まった。
「……なんだ?」
結界に何かが近付いている。しかも、どうやら人のようだ。生徒――? それとも、術士か。
どっちにしろ邪魔だ。
非常階段を駆け下りる。せめて結界を張っているのが何か調べなければ術式の使い損だ。
そして中庭の前。姿を隠す術式はまだ問題なく稼動している。だと言うのに。
「こんにちは」
後ろに立っていた奴は、そんな事無視して話しかけてきやがった。
小柄で女みたいに整った顔立ちをしたメガネの少年。しかし何の術装もしていなければ――異形でもない。だが確かに姿を隠した俺の姿を見て挨拶をしてくる、異常者。警戒して刀を構える。
「そう殺気立たないでよ。別に何もしないから」
よく見ると、そいつは缶を二つ持っていた。コーンポタージュの黄色い缶。
笑みを俺に向けて、そいつは首を傾げた。
「――キミは、退魔士かな」
「察しの通りだが――テメェはなんだ」
はなっから馴れ合うつもりもなく言い放った。
俺は一般人との会話は菖蒲として、普通に接している。そうしないと俺は異常者か、狂人でしか無いからだ。相手が普通ならば、俺もこの少年にいつものように菖蒲として接しているだろう。
確たる証拠は無い。
ただ本能と言うか、五感以外のものが告げていた。
こいつは――バケモノだ。
「む、もう最初っから人の扱いじゃないんだね。でもまぁさすがって賞賛するところかな」
柔らかい微笑を浮かべる。
「初めまして。愚鈍で愚昧な我が隣人」
笑みが消え去った後に残ったのは冷徹と狂気。殺意と狂喜。
「僕の名は、天夜」
また柔らかく優しげな微笑を作り出して、全てを覆い隠す。歓喜か恐怖か、刀を持つ手が震えた。既に自分に行使した姿を隠す術式が消えていたが、そんな事にも気付けない。
ただ目の前のそれに対峙する。
「……ちょっと今は用事があるから、積もる話は放課後にしよう」
脇をすり抜けて謎の結界の中に入っていくそいつを目で追う事もできずに、固まっていた。
「アヤメ」
教師の声が途絶えた直後に海晴が声を掛けてきた。そこで、やっとホームルームが終わった事に気付く。あれから午後の授業は全く身が入らなかったし、ノートも白紙だ。しかし俺には成績を考える余裕も無い。
そして自分が黙り込んでいる事に気付き、海晴が心配そうに覗き込んでる事に気が付いた。
「……なに、海晴君?」
平静を装って、菖蒲になる。
「今日の七時からさ、樫月とか呼んでウチで鍋パーティするんだけど、来ない?」
その質問の意味を理解するのには少しだけ時間を要した。
意味もなく噴出してしまう。
「うわ、何か変なこと言った!?」
笑われた事が心外だったのか、私が笑った事が以外だったのか、海晴は慌てていた。
「ごめ、……くくっ……ちょっと誘い方が平和すぎて……」
ギャップと言うのだろうか、あの人外と会うという危険な約束の後、この海晴の言葉。平和すぎて、つい噴出してしまった。不安なんかが一気に吹っ飛んで……和んだ。
こんな調子で大丈夫なのだろうか。まぁ、大丈夫なんだろう。
折角なので思いっきり海晴のことを笑ってやった。教室中から視線を集めるし、海晴があたふたするけど笑い続ける。そして笑い疲れてから、席を立った。
「ありがと。余裕があったらね」
「あ――……うん」
海晴が確かに頷いたのを見て、私は屋上へと足を運んだ。
戦場に行くに足りる平和的な送り文句は貰った。あとは戦場に向かうだけだ。
屋上には先客が居た。
「ここ、良い場所だね」
給水タンクに腰掛けて、俺を見下ろしている天夜。特にどうも思わなかった。屋上の片隅に隠してあった手甲を右腕に嵌め、刀を構える。結界はすでにあちら側が用意してくれていたらしい。
これから何が起ころうと外からは何も見えないし聞こえない。
「てっきり仲間を呼ぶと思ったのに。何で呼ばなかったの?」
給水タンクから飛び降り、着地。あまりにも無駄の無い動きだ。アヤメは質問に答える。
「ドンパチしてりゃ、三十分もすれば来るだろうよ。結界内はほとんどプライベートだし、向こう百年は結界内で何が行われたか使われたかどうか調べられるらしいしな」
天夜は感心したように、へぇ、と呟いた。
「秘匿破りなんて利益の無いことする奴もそうそう居ないし、調べればすぐわかる」
一通り解説をしながら天夜を観察する。見れば見るほど、その姿は一般人と変わりなく、何の術装もない。隠しているのか誤魔化しているのか。少なくとも何らかの肉体強化術式を使っている事は確かだ。錆色の刀身をちらつかせながら間合いを取ろうとするが、相手は凶器に怯む様子もなく、歩き回る。
話も途絶え、二人とも黙り込んで沈黙。どんよりとした空が天夜の後ろに見える。
刹那に掻き消えた影を追う事もできず、視界が暗くなった。
「――っ!?」
人肌の、温い感触が目元を覆っている。
「だったら僕は気兼ねなく戦えるみたいだね」
息が耳に掛かる。
刀で振り払う。視界が開くと、既に天夜は給水タンクの上に降り立っていた。
「随分と余裕じゃねぇか」
奴がメガネを投げ捨てる。乾いた音を立ててそれが壊れるのと、俺が身を躱すのは同時だった。背後で床が爆ぜる。体勢を立て直すが――いつもなら浮かぶはずの、“次の一手”が浮かばない。
不明、理解不能。
そうして戸惑っている内に、天夜は目の前に降り立った。
振りかざす細腕からは想像も付かない力。刀の刃で受けたのにも拘らず、俺はあっさりと壁に叩き付けられた。せりあがる吐き気を無視して目の前に悠然と佇む天夜を睨んだ。
――余興を排除、徹底的な殺害に移行。
「余裕は独裁者に与えられた特権だよ」
余計な思考は焼き捨てろ。術式を編み上げて身体強化。
「式名、陰陽式――火遁、金遁、水遁、木遁、土遁、総ジテ、五行ト為シ身ニ纏エ」
手甲のあらん限りの属性を全て身体強化につぎ込み、五感を強化する。
思考にノイズが混じる。
血塗れの誰かと、首無しの死体と、蜘蛛の体と、牛の頭と、ニタニタした笑いと。
「其ノ名ハ――五画星」
視界が全て開いた。背後まではっきりと見え、防音の結界の向こうの音まで聞こえる。肌を撫でる風が通り過ぎていく感触まではっきりと感じ、舌は臓器から溢れてきた血の味で痺れ、鉄のような匂いが鼻腔をくすぐった。
ああ……久し振りの、“本気”だ。
理性がぶっ飛ぶ爽快感。
血の味に酔ったのか妙な陶酔を味わいながら、刀を構える。錆色が揺らいだ。
「なんかヤバそうな術だね」
苦笑する天夜。その通りだ。これは――
肩口が綺麗に裂けて、良い声で啼いた。
――鬼をも殺す術。
ニタニタ笑い。
「ぁ……く、なんだ、今の……」
先ほどまであった余裕がなくなってるように見えた。右の肩口からは赤いものが吹き出して地面と俺を濡らしている。苦しみ悶えるその姿に何とも言えない悦楽を味わう。さあ血祭りの時間だ。
「その程度で折れてくれるなよ? もっともっと楽しもうぜ」
屈伸を利用して跳躍、天夜の真正面に移動した。驚愕する表情を真っ二つに割る。
しかしそれは空を切って、横腹に衝撃。俺の体は柵に叩き付けられた。だが柵から転がり落ちるよりも早くに天夜の位置を捕捉、着地と同時に跳躍して切り払う。
「ふ、チィッ」
刃は首の薄皮を掠める程度で致死には至らない。更に右手を添えて刺突。
顔面を狙ったそれは躱されて、天夜は十メートルほど距離を稼いでいた。しかし直線距離に出しかない、突き出した刀をそのまま投擲した。頬を掠めて刀は壁に突き刺さる。
削れてきた。後は一気に崩すだけだ。
「ハッハァ!」
声を上げて飛び掛り、馬乗りになる。手甲を嵌めた腕を振り上げて、下ろす。潰れるような悲鳴が胸に響いた。嗜虐心を刺激され、何度も何度も打ち下ろした。肉を打つ感触が楽しくて仕方が無い。
そして気が付くと――天夜の顔面は有り得ない形状にまでなっていた。あの少女のように小奇麗な容姿なんて跡形もなく、顔の部分はまさに肉の塊。
だがまだ収まらない。私は立ち上がると、壁を蹴り壊して、深々と刺さった刀を抜いた。
――首を落せ。
そうしないと殺せない。
そうしないと殺せない。
そうしないと眠れない。
――首を落せ。
「満足した?」
振り向きざまに刀を振るう、しかしそれは途中で何かに引っかかって止まった。
顔を上げてそいつを見る。少女のような繊細な顔。たった指二本で、錆色の刀身を受け止めていた。まるで何かの冗談のような光景だった。人間業じゃない。こいつは、異形じゃないのに。やっている事は、目の前で確かに起こっている事は――どこまでも外れている。
肩口を裂いたのに、顔面の形状が変わるぐらいに殴ったのに。
無傷で立っている。
昂った感情が、急速に冷めていくのを感じた。
ニタニタ笑い。
「さすがの僕も普通は死んじゃうけどさ――古代遺物って凄いよね。死なない限りは癒してくれる」
天夜は恐怖を体現したような笑みを浮かべて、懐から透き通った石を取り出した。しかしそれは砕け散り、風に流されて消えていく。恐らくもうそれに効果は無いのに、天夜は最初みたいな余裕を見せてる。
刀を持つ手が震えた。
これは。
ニタニタ笑い。
恐怖。
「あー、壊れちゃった。でもいいや。君のお陰で、手加減しないで良いって事がわかったし」
一歩だけ天夜がこちらに歩み寄ってきた。それだけで重圧を感じた。震えが大きくなる。抑えようとしても抑える事はできなかった。本能が逃げろと警鐘を鳴らすのに動けない。
“殺される”。
この感覚を味わったのは二度目、か。
どこか冷静な部分が、震える“私”を余所に呟いた。
「見縊ってたよ。だから、今度は――本気で行くよ」
言葉を切るのと天夜が消えるのは同時だった。強化した動体視力で追って、天夜の動きを捉える。捉えたけど、動く事はできなかった。――ありえない。
「人間の反応速度、って知ってるかな」
床で二回跳ねて柵に叩きつけられる。何とか着地する。天夜とは屋上の端から端までの距離があった。
臓器から溢れあがる血を吐き捨てて駆け出す。
「人間が目で物を認識してアクションを起こすまでのラグの事だよ」
天夜が動くのが見えた。防御を、そんな思考が過ぎるのと同時に脇腹に衝撃が走った。そのまま地面に叩きつけられ、胃の中のものを吐き出した。咳き込む私を見下ろして、天夜は言葉を続ける。
「だからね。人間はそのラグの間、“何もできない”。そして人間にはどう頑張ってもこの“ラグは無くせない”」
誇るように、嘲るように言う。
地面に倒れながら足首を狙って刀を振るが、掠りもしない。天夜は給水タンクの上にまた乗っていた。夜の帳、まるで彼を祝福するかのように、満月が浮かんでいた。
「……その身に我が名を刻んで朽ちよ。我が名は天夜――世界に君臨する独裁者にて、“超人”だ」
立ち上がる。体は悲鳴を上げてるし、臓器からは血が溢れる。一挙手一投足が激痛だ。でもこんな所で死んでしまうよりはずっとマシだ。見上げる。だがそこにあるのは明確な“死”だった。
頬を伝ったそれが、一瞬何だか分からなかった。
「……たく、ない」
声が勝手に口を押し開いて零れる。
「死にたくない、よ」
狂気が剥がれ落ちた。剥がれ落ちてしまった。
「命乞い? まるで別人だな……もう少し楽しめると思ったが、ここで幕引きだ」
天夜が構える。月が栄える。
死にたくない。
だから私は――剥がれ落ちた狂気を纏う。
「――いーや、最後まで楽しんでもらうぜぇ?」
構えていた天夜が怪訝な顔をして動きを止めた。俺は刀を逆手に持ち直し、詠唱を始める。
「其の刀、嘗て火の神を切り殺す」
卵の殻が割れるような軽い音がして、錆色に白い罅が走った。
天夜が弾丸のように――いやまさに弾丸か――飛び込んでくる。その必殺の拳を、刀が勝手に防いだ。火花が散る。既に次の行動に移り、回転木馬のように俺の周りを回って拳を叩き込むが、勝手に刀が阻む。
「其の刀、嘗て八又の大蛇を切り殺す」
天夜が一気に距離を開いた。勢いを使って防ぎきれない一撃を加えるつもりだろう。
「浅き歴史を概念にて補強し、ただ殺すだけに特化した雷鳴とする」
錆色が消し飛んで、幻想のように白い刃が現れた。青い火花を纏った、根こそぎ俺から奪っていこうとする刀。昇ってくる血の味を抑え込んで、狙いを定める。
天夜が突っ込んできた。
「――十束ノ剣――!」
閃光が辺りを昼に変え、全ての視界を奪った。
「あーあーあー……」
暗闇。白塗りにされた、だけど確かな暗闇。強化された視力もこんな風にされちゃ全く以って意味がない。
まさか取り逃がすとは思わなかった。手探りで壁を探し、もたれかかる。上を見上げてみるが、目が潰れてしまっているので、月は見えない。そればかりが残念でならない。
閃光は目晦まし。あのまま放てば屋上ごと吹き飛ばされていただろうが、どう考えてもあの状態での発動は不可能。恐らく、彼女は咄嗟の判断で強力な攻撃を放棄して、目晦ましとして使ったのだろう。正確な判断だ。もしもあそこであれを攻撃として放っていたら、幾ら重傷でもあの子を殺せたのに。
仕方ないと嘆息して、視界が回復するのを待つ。
しかし、教会から受け取った“エメラルド・タブレット”を壊してしまったのは失敗だ。あれがあれば直ぐに視界も回復しただろうに。まぁ……あれだけ完膚なきまでに痛めつけられてしまったら、さすがの古代遺物であろうとオーバーワークと言うものだ。むしろ壊れていない方が異常と言えるのかもしれない。
目を閉じて開く。視界に変化無し。嘆息。
かつて鬼を殺した退魔士、アヤメ。業界では“殺女”だとか“狩猟者”だとか勝手に異名をつけられるほど有名で、有能。彼女によって消された異形は数知れず――まぁ、噂は本当だったようだ。
生かしておく理由もない。確かに、あいつらが恐れている存在だけはある。しかしあれ以上に恐れられている裁定者なんてモノも相手取らなければならない。さすがに無手では辛かろう。やはり出し惜しみせずに“アレ”を持ち出すべきか。
教会はあの程度のものを恐れているのか、と呆れてしまう。
段々と視界が戻ってくる。
二度目、彼女と戦う事があるのならば。
僕は彼女を一手で心臓を抉り、二手でそれを握りつぶす事ができる。
目には黄金を誇る月。
「月ヶ谷。その辺修復したら帰っていいよ。結界も消して、痕跡は――あー、残していいや」
目の前に降り立ったのは、お世辞にも美しいと言えないゴワゴワとした毛並みの人狼。ゆっくりとその姿は初老の男のものに変わった。協力者である月ヶ谷は文句一つも言わずに結界を解除する。
自分の姿を改めて見てみる。……随分と薄汚いな。
「服、持ってない? お姫様迎えに行くのにこの格好じゃあ、カッコつかないし」
「用意していますとも。こちらを」
月ヶ谷は待っていましたと言わんばかりに黒いゆったりとした……ローブを取り出した。何らかの術装らしいが、服といってこんなものを差し出すこの男のセンスを疑う。しかしないよりはずっとマシである事も確かだ。
「では、行ってらっしゃいませ」
月ヶ谷が去って行く。と言うか姿を隠したのだろう。研ぎ澄まなければ分からないが、微かに月ヶ谷の気配を感じる。なるほど、教会もそれなりに優秀な人間を僕の監視においているらしい。当然と言えば当然か。あの子を迎えてから色々したいからあまり監視されるのは好ましくないが――現在の関係を崩すのも利にならない。
寒空の下、僕もそのローブに袖を通した。
あの子を迎えに行こう。復活の日は、そう遠くない。
「さぁ、」
誰となく呟く。
「往こう」
買い物を済ませて花村マーケットを出た頃。雲が少し晴れて、金色の月がのぞいている。一段と寒さも増していた。かじかむ手で携帯電話を取り出して――ふと、視界の隅に何かが映った気がした。携帯電話を握り締めたまま、視線をそちらに向ける。そこは小さな児童公園だ。
耳に痛いほど辺りは静か。吐き出した息が白く濁る。
脳裏を掠める単語は異形……いや、さすがに飛躍しているかもしれない。だが微かな不安はあった。不用意にも、今僕の手元には“ベニイシ”も“照魔鏡”もない。
異形に襲われたら、きっと抵抗する間もなく首を掻かれてしまうだろう。
だからこの場に留まる必要はないのに。携帯電話を握り締めたまま公園をぼんやりと眺める。
影。街灯から逃げるように何かが確認できた。
携帯電話をしまう。
ふらふらと、誘われるように公園の中に入る。影に動きはない。近付いて、それが人の形をしていて、うずくまっているのがわかった。もしかしたら具合の悪いだけの人かもしれない。だけど声を掛けるのは何だか憚られた。
雰囲気が近付き難いというか――拒絶している。
でもその雰囲気のお陰でわかった。その影がアヤメだと分かった。
「ね、アヤメ――」
そして一瞬後。
喉もとに、錆色の刃が突きつけられていることに気付いた。
「――ど、わぁ?!」
余りにも突然だったので尻餅をつく。しかも何だかとっても情けない声を上げてしまった気がする。なんとなく赤面、する雰囲気でもなかったので尻餅をつきながら背を向けてうずくまってるアヤメを見る。
なんか、暗い。
「どうかしたの?」
「……海晴……か、なんだよ。帰れ」
できうる限り優しい言葉をかけたつもりだったけど、つっけんどんプラス殺意みたいな言葉を返された。不機嫌なのは確かだった。今のアヤメなら背中越しに人を殺せるような気がする。
でも、どうしてだろう。
何となくだけど――……思うところあって、僕は立ち上がる。近付いて、うずくまってるアヤメには悪いけど、無理やりこちらを向かせて、僕の思考は停止した。
涙を溜めた目。肩も小刻みに震えていた。
「帰れって、言ったじゃねぇかよ」
怒気を含んだ声。だけど表情は何処までも寂しそうで悲しそうで、辛そうだった。
うん、あれだ。言葉を失う。いつものアヤメからは想像ができない。いや、想像を絶する表情。
あー、とか、う、とか言葉になりそうになった声は結局、息とともに白く濁った。でも失礼ながら、そのとても人間らしいアヤメの顔を見て嬉しいやら、辛そうな表情を見てなんて声を掛けていいやら、で。
……しばしアヤメに見とれていたのは嘘じゃないだろう。
「どう、したの?」
やっとの事で捻り出した言葉は、そんな平凡な問いかけだった。
「言いたくない」
「そ、そう」
不思議だ――アヤメは泣いているのに。表情はこんなにも寂しそうで悲しそうなのに。身に纏ってる雰囲気はいつもと変わらない。異形を狩るときのそれと。まるで。
――まるで、自分が泣いている事に気付いてないみたいだ。
何気なく手袋を外して流れる涙を掬ってみた。でも留めなくそれは流れ落ちる。
「止まらないんだよ、それ」
アヤメは他人事のようにそう言った。
「止まらないんだ」
繰り返して、アヤメの口元が笑おうと形を作って、歪に笑う。
それがあまりにも痛々しくて目を逸らした。
アヤメの目元にあてがった人差し指。その指だけが暖かくて、それ以外は冷たい空気に晒される。上手い言葉も見つからない。励ましも同情も、何か違う気がして。
暖かい。でも、冷たい。
「……ごめん」
何も分からなくて。
何も答えてもらえなくて。
何も言えなくて。
出た言葉がそんな言葉しかなくて。
真正面からアヤメを抱き締めた。
細い体。暖かい感触。柔らかい感触。右腕の手甲の冷たい手触り。普通の女の子なのに。何がこんな風にしてしまったんだろう。いつから彼女は止まることができなくなったのだろう。
疑問符ばかりが浮かんで。不器用な自分には、結局何もできなかった。
×××。
頭が痛い。割れそうだ。
「俺さ、負けたんだ。いや違うな――殺されかけて、逃げる事しかできなかった。きっともう一度会ったら、俺は殺される」
×××。
頭痛が増してくる。でも、必死にアヤメの言葉に耳を傾けた。
「あの時から」
泣き出しそうな顔なのに、平坦なアヤメの声が途切れて聞こえる
ナイフで心臓を抉られるような痛み。
「私は強くなろうとしたのに」
それはどんどんと深くなって。
「……俺に全部押し付けただけで、私は何にも変わってない」
罅の入るような頭の痛み。
「海晴」
名前を呼ばれて、気がついた。
アヤメは。菖蒲は。
「――私のほうこそ、ごめんなさい」
狂いたがりの女の子。
「強くなって、海晴を守るから」
狂いたくて狂いたくてしょうがないのに。狂う事のできない、哀れで愛しい道化。
×××。
「だから海晴、」
声が霞む。頭が痛くて、何もかもが白んでく。
「海晴は“誰も救おうと思わないで”」
どうしてか悲しくて、僕の頬を涙が伝っていた。
目を覚ましたのは公園のベンチ。寒い空気が頬をなでた。体もかなり冷えている。アヤメの姿を探してみても見つけることはできなかった。夢ではない、残っている感触がそれを語っている。
ベンチから体を起こす。買い物袋はベンチの足に置いてあって、メモが一つ入ってた。
『パーティには参加しない。だから精々楽しんどけ』
アヤメだ。
いつもの調子っぽいその文章を読んで、つい苦笑が漏れた。
携帯電話を確認する。
「うっわ、こりゃ……まずいかもなぁ」
時計は七時半を示し、それは僕が家を出てから二時間以上経っている事を知らせていた。姉貴、それにもうカンナさんまで来ているかも知れない。問答無用で鉛弾が飛んでくる可能性もある、急がないと。
誰も救おうとしないで。
どこか遠くの国の言葉のように、それが響いた。公園の入り口で振り返る。
もちろん、そこにアヤメの姿はない。
初めてだったな……
アヤメが、本当に泣き出しそうな声を出したのは。
そう、ボンヤリと思い返して。僕は家路を急いだ。
×××、×××××。
××。
××××。