天夜奇想譚

side out

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だれでも歓迎! 編集

作者:グリム

タイトル:パラノイアの娘/side out







 我を救ひたまへ、君。

 我が恥なき人とならんを。

 母は我が彼の言葉に従はねばとて我を打ちき。

 父は死にたり。

 明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯えだになし。

 ――森鴎外“舞姫”より。



 布団から体を起こす。いつも通りのボロアパートだ。変な臭いがするけど、やっぱりいつも通りだ。母親の姿は無い、もうパートに行ったか、そうでなければ男の家だろうか。蛇口を捻って水を流し、顔を洗う。

 窓ガラスに映る顔。短い髪。私は伸ばしたかったけれど、お父さんに怒られて以来、髪を伸ばした事はない。

 長い髪を見るたびに、羨ましく思う。

「……学校、行かなきゃ」

 呟いて寝巻き代わりのボロボロな服を脱いだ。焼けてない肌は白い。彼は綺麗だと言ってくれたけど、母親っぽくて嫌だ。制服を着込む。冬服だけど、隙間風が入っているせいであまり暖かく感じない。いつかここを出たい。

 食事をしようか。一旦考えて、やめる。

 そんな事をするぐらいなら一日でも食料が保つようにしなければ。冷蔵庫の中にはあまり食料は残っていない。援助金が来るのは明後日だから、それまでに無くなりさえしなければいい。

 奪われさえしなければ、それでいい。

 ひび割れた目覚まし時計がガリガリと音を鳴らす。もうアパートを出ないと間に合わない。

「いってきます」

 返事はないけど、カバンを持って扉を閉めた。

 やっぱり、臭い。



「おはようございます、太田(オオタ)さん」

 学校へ行く途中。

 ぺこりと小動物的な一礼をくれたのは、一年の時同じクラスだった穂積さんだった。彼女は珍しくメガネを掛けていた。

「おはよう。穂積さん今日はメガネ?」

「え、あ、はい。コンタクトを水道に流しちゃって」

 照れくさそうに彼女は笑う。笑う彼女はとても幸せそうだった。私には少し眩しい笑顔。彼女から視線を外す。周りにはちらほら学校へ向かう同じ制服の生徒たちが目に入った。どれも自分よりも幸せそうに見えて、辛かった。

 穂積さんが不思議そうに私の顔を覗きこんで来ている。

「――太田さんはコンタクトにしないんですか?」

 逆に問われた。しかし答えに窮する。

 そんなものにお金を使うなんて勿体無い、メガネだってお金がかかるのに。でもそんな恥ずかしい事が言えるはずが無い。

「目に物を入れるのって痛そうでしょ、無理無理」

 嘘とも本当とも、自分でも分からない答えを返した。本音は隠している。穂積さんは納得したようで、そうなんですか、と頷いていた。彼女は内気だけど、一年生のある時を境に幸せな表情を見せるようになった。

 羨ましい。けれど、それは彼女のものだ。

 私はいつ幸せになれるのだろうか。

 彼女の横顔を見てから、空を見上げる。曇り空で暗い。雪が降った日から、かなり冷え込んでいる。風邪を引いて休む生徒の数も多くなってきた。寒い日が続くのは私としては辛い。

 取り留めのない話をしながら通学路を歩く。

「マフラーとか手袋無いと寒くないですか?」

 言われて、自分が両手を擦り合わせている事に気付いた。

 今年の冬は例年以上に寒いらしい。この調子じゃ、手袋やマフラーも近々買わなければならない。給料日になったら買いに行かないと。そんな事を思いながら、穂積さんからの質問に適当に答える。彼女は暖かそうな手袋をして、暖かそうなマフラーを巻いている。それだけで私と違うのだと思い知らされる。

 異常なのは私。

 否、異常なのは私を取り巻く環境だ。

 それでも抱いてしまう劣等感。それだからこそ劣等感を抱く。心が歪になっていくような気がして、私は首を振った。穂積さんが気にしているけれど、私は適当に誤魔化した。

 何事も無かったかのように雑談を進める。

「あ――」

 でもそれさえも叶わない。

 黒塗りの外車が道路脇に停まっていた。

 それを見ただけで喉が渇くような不快感が全身を駆け巡った。見覚えがある、いや、そんな生易しいものじゃない。刻み込まれた全てが疼きだして、這いずり回る。激しい嘔吐感。

「ごめん。私ちょっと忘れ物取りに帰るね」

「え?」

 困惑の声を上げる穂積さんをその場に残して、私は反対方向に駆け出した。それから角を曲がり、細い路地に入る。

 口元を押さえる。息を整える。そして衣服の乱れをなおした。無言で肩をつかまれた。振り返ると、ガッチリとした体型のスーツの男が立っている。その男の向こうで、窓を開けた車内から脂ぎった中年の男も窺えた。

 車の後部座席に座る。それ以外に選択肢は存在しない。

 ドアが閉じられた。

「すまんなぁ、突然会いたくなってしまってねぇ……」

 体臭が鼻をつく。男の芋虫のような指が私の肩を掴み、半ば無理矢理に抱き寄せた。密着する暑苦しさ――そして高まる不快感から来る薄ら寒さ。にやりと笑う男の口の端からは黄ばんだ歯が見えた。

 静かなエンジン音。窓の景色が流れていく。

 逃げられない。

「ああ、キミ。いつものホテルまで頼むよ」

 運転手に呼びかける男。運転手は無言でハンドルを切った。

 理不尽に思う、いつもそう思う。彼女とは違う世界の住人だと思い知らされて、自分が親に売られていると言うことを自覚させられる。込み上げてくる胃液を何とか押し留めて、彼の機嫌を損ねない程度の笑みを作り、貼り付ける。

 服の中をまさぐろうとする手。這いずる指を振り払うことも、口内に捻じ込まれそうな舌を拒絶することもできない。


 私は“彼”から逃げる事はできない/私は“彼”によって生かされている。





『お父さんは死んだのよ』

 いつまでも若く美しい母は、どうでもいい事のように言った。

 死んだなんて事は分かりきっている。母親は私の目の前でお父さんの首を締め上げて殺した。遺骸は乱れた布団の上に寝かされていた。信じられない、と今にも叫びだしそうな表情で冷たくなっていく。

『お父さんは死んだのよ』

 リピート。壊れた機械のように吐き出す。

 母親の顔は蒼白で、それでも死人の姫のような美しさを持っていた。

『お父さんは、は、は、死、し! があああぁぁっぁ!』

 叫ぶ。壊れた母親は私の首に白く細い指を絡め、信じられない力で締め上げた。体が持ち上がる。声を漏らすこともできず、呼吸をすることすら許されず。異常だった。異常でしかなかった。

 必死の思いでそれを振り払い、地面に這いつくばった。母親は、ぐるん、と私を見下ろす。

 異常な目の色。

『嗚呼、何で、何で!』

 叫び声。悲痛な声だった。

『貴方は私を騙し続けたのね、貴方は私を裏切ったのね!』

 そこには、業火を纏った、母親だった――明らかに違うモノが立っていた。

『相沢は言ったわ! 貴方は私を欺き続けているって!』

 慟哭。女は私を見下ろして、




 目を覚ます。シーツを纏ってベッドから降り、机の上に置いてある封筒の中身を確認する。札束が五枚。私の値段。シーツを乱暴に剥ぎ取って、その辺に散らばった制服や下着を着た。

 一刻も早くこの場から離れたかった。まだあの男の臭いが染み付いている。シャワーを浴びたかったけど、それよりもやはり早くここを出たい。

 荷物をまとめて身支度を済ませると悪趣味な一室から出た。駆け足でホテルから出る。日はまだ高く、お昼頃だということが分かった。辺りを見ていると、自分が見られていることに気がつく。この時間帯に、こんな所に居ると嫌でも目立ってしまう。その場を早足で離れて、学校へと向かった。歓楽街からはそう遠くないはずだ。

 学校に辿り着いたのは二十分ぐらい歩いてからだった。

 時計を見る。もう午前の授業日程が終わって間もない時間だった。このまま休んでしまおうかと思ったが、ここまで歩いてきてそんな気にもならなかった。家には戻りたくない。まだ秩序のある場所の方がマシだ。

 足取りは重く、玄関まで辿り着くと一気に力が抜けた。下駄箱の前でしゃがみ込んでしまう。

「……ん、ぐ、」

 我慢していたものが一気に込み上げてきた。無理矢理足を動かしてトイレへ急いだ。

 気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。私は悪くないのに。

 全てを吐き出して、それでも不快感は平然と私の中に居座っていた。泣きたくなる。だけど泣いたって何にもならないから、私は不快感を考えないように思考の隅へと追いやった。体は重いままだけど、気持ちだけは少し落ち着いてきた。

 トイレを出て、中庭へと足を運んだ。木々は枯れて、寒いぐらいの風が吹いているけれど、今はそれぐらいが丁度いい。人に会いたくない気分だったから、そういうことでも都合は良かった。

 据え付けられたベンチに深く腰を下ろして白い息を曇り空に向けて吐いた。

「どーしたの?」

 声がした。目の前から。顔を真正面に向けると、近くに少年の顔があった。ビックリして、ひっくり返りそうになった所を腕を捉まれて何とかなんを逃れる。そしてもう一度少年の顔をまじまじと見た。メガネを掛け、少し幼さの感じる顔立ち。小柄で、どちらかと言うと可愛いに分類されるような感じ。制服が違えば少女でも通りそうだ。

 見覚えが無かった。

「……顔、真っ青だよ」

 しかし彼は心配そうに覗き込んでくる。

「ちょっと、気分が悪くて」

「じゃ、保健室いかないと。歩ける?」

 そう言って手を引こうとするので、思わず振り払った。振り払ってから、しまった、と思う。

「ごめん、しばらくこうしてたら大丈夫だから」

「気にしてないよ。安静にしててね」

 彼は笑顔を向けてから去っていった。あの人も、自分と違うのだろう。ダメだ、思考がどうしてもネガティヴに傾いてしまう。今日は朝からずっと気分が悪い。あの男。あの男さえ来なかったらいつも通りだったのに。

 思い出して、また気分が悪くなる。

「はい」

「――え?」

 顔を上げる。先ほどの少年が立っていた。手には黄色の缶。コーンポタージュ。それを私の脇に置くと、隣に座ってもう一本のコーンポタージュの缶を飲んでいた。

 飲み終えて、不思議そうな顔をしてこちらを見る。

「飲まないと冷めちゃうよ。喉、渇いてるんでしょ」

 要らない、と答えられなかった。喉は渇いていた。朝から何も飲んでなくて、この体調。唇も乾いていた。無言で脇に置いてあった缶を手にとってプルタブに指を掛けた。力を込めるが中々開かない。すると横から手が伸びて、簡単に開けてしまった。

「ほら」

 笑顔で差し出される缶。湯気を上げ、匂いが立ち込める。

 私はその暖かい缶を受け取ると、そのまま喉に流し込んだ。体中に染み渡って、気持ちが落ち着いていく。

 缶を握っていた手に、一滴の雫が落ちる。嗚咽も漏れた。顔を伏せる。暖かさが嬉しかった。温もりが嬉しかった。気遣いが嬉しかった。必死に声を押し殺して泣き続ける。それすらも辛い。

 ついには声を出して泣き出す。

 その間、彼はずっと黙っていた。

 落ち着いた頃、彼はようやく口を開いた。

「――もう大丈夫?」

 頷いた。これから先は分からないけれど、今はもう大丈夫。

「それじゃ、僕は戻るね」

「あ、待って」

 去っていこうとする少年を呼び止める。振り返る少年に、尋ねる。

「君の名前は?」

 泡沫のように浮かび上がった疑問を割った。彼はにっこりと、笑った。その笑みは先ほどまでのものとは明らかに違うものであった。背筋に嫌な汗が噴出すような感じ。それは一瞬だった。

「縁があれば」

 そう言って踵を返した。

 縁。……エニシ。そんなもの、あるのだろうか。

 でも私はもう一度彼に会いたいと思った。締め付けられるような想いが、確かにあった。

 恋。

 私はそんな言葉の存在を、この時忘れてしまっていたらしい。




 あの後、私は午後の授業を済ませて、すでに帰途についていた。穂積さんは部活生だから一緒じゃない。冬は本当に暗くなるのが早い。もう日の光は西へと沈んでいた。夜道を一人で歩く。

 暗がりは好きだった。母親が居た時から、お父さんが生きていた頃から、ずっと私の拠り所。二人が死んでも私を放してくれない。

 ふと、昔の事を思い出す。

 ――お父さんは、都心から天夜の支社に送られた優秀な社員だったらしい。何の仕事だか知らないけど、優秀と言うことは聞いていた。小さい頃から優しかったのを覚えている。約束をなかなか守ってくれない事も。

 お父さんの友人には相沢さんと言う男友達が居た。都心に居た頃からの仲良しらしく、家に招いては一緒に食事をして、幼い私が床についたあとはこっそり酒を飲み交わしていたらしい。お父さんが仕事に躓いた時も支えてくれたり、お父さんが死んでからも資金を送ってくれたりしてくれた。

 私の母親は、異常だった。

 思い出してから私は暗い路地を振り返る。母親の幻影と目が合って、目を見張る。でもそれは幻影でしかなく、そこには何も立っていなかった。心臓が異様な速度で打たれ、息も自然と荒くなった。歩調を速める。

 母親は精神を病んでいた。私が生まれる前かららしい。相沢さんはこの話をすると難しい顔をして、お父さんは怖い顔をして判別の難しいぐらいの声で相沢さんの名前を漏らしていた。母親の存在を知ったのは、都心からお父さんが天夜へ転勤になったときの事だった。昔、こっちに転属された事があるとお父さんが言って、母親の話が出てきたんだっけ。

 二人の出会いは偶然だった。母親は当時で十台後半。学校へも行けず、水商売をしていたそうだ。私の祖母にあたる人は母親を売って金にして、祖父にあたる人間の葬儀にあてようとしたらしい。

 そこにお父さんが出てきて、資金を援助した。

 出会ってから、初めから決められたかのように恋に落ちたらしい。

 そして私が母親の胎の中に居た頃に、お父さんは急遽都心に帰ることになった。母親がその事実で精神を病んでしまい、生まれたばかりの私はお父さんに引き取られて一緒に都心に帰った。母親はこの天夜市の精神病院へ。

 ――私は帰ってきてしまった。

 お父さんは離れながらも母親を愛していた。病院で無理矢理な手続きをして、彼女のために私が今住んでいるアパートを借りてそこに私も連れて行かれた。

 ……そこでお父さんは死に、母親は――

 振り返る。誰も居る訳が無い。誰も居ない。

 それからは相沢さんが向こうから学費や生活に最低限のお金だけは援助してくれるようになった。顔はあまり見ないけど、彼のお陰で私はのたれ死ぬ事も無く生きている。

 私は一度もこの街を出ようとは思わなかった。あんな事が起きても、こっちの方が住み慣れている。

 この街に居ないといけない。

 振り返っても誰も居ない。母親の幻影も、あの少年も。

 家の前まで来て、愕然とした。あの黒塗りの外車が停まっている。見間違えようも無い。私は足早にそれをすり抜けて自分の部屋まで行くと、中に篭った。

 騒がしい足音が近付いて、止まる。扉が叩かれた。

「私だよ、怖がらず開けておくれ」

 気持ち悪いほど優しそうな声で、あの男は言った。狼を怖がる子羊のようだ。どこか冷静な感情が、今の私を酷評する。でもそれは言い得て妙だ。笑みが零れる。うずくまって震えながら、笑みが漏れた。

 嗚呼、なんて可笑しいのでしょう。

 あんな男。

 ……してしまえばいいのに。

 扉を叩く音が段々と激しくなっていく。そしてピタリと止んだ。

「おい」

 低い男の声。少しの間を空けて、扉に物凄い衝撃。恐らくあのスーツの男が体当たりしているのだろう。薄い扉はそれだけで悲鳴を上げて招かれざる客を迎え入れてしまいそう。来ないで/来ておくれ。

 二度。三度……扉が耐え切れずに開いた。

 喉から悲鳴が漏れる。

「さぁ、おいで」

 ずかずかと部屋の中に土足で踏み込んでくる男。スーツの男は静かにその男に付き従っていた。

「ぁ――」

 肩を掴まれた。痛み。今まで二律背反で存在していた狂気染みた声が失われ、私の中には恐怖だけが残った。直視する。暗がりから伸びて来る芋虫みたいな厭な指。嫌悪感、嘔吐感、不快感。

 厭だ。

「やめてっ」

 振り払った。男の顔が歪む。

「……誰のお陰で今まで生活できていたと思ってるんだ!」

 頬を叩かれた。倒れる衝撃が先に来て、遅れて右の頬が熱くなる。男は不気味な笑みを浮かべて私を見下ろしていた。

 厭だ。

 厭だ厭だ厭だ厭だ。


「許して、許してください相沢さん……ッ」

 だから私は許しを請う。

 生きられないぐらいなら、死んでしまうぐらいなら――私はどんなに汚いものにも縋りつく。

 かつてのお父さんの友人で、私を助けるフリをして自分の欲望の捌け口にした最悪の男でも。例え、母親が狂う原因を作った愚かな男でも。私は縋る。生きたいから。生きて居たいから。

 ――なんで?

 生きたいならば縋る以外にも方法があるだろう?

 声がする。知らない事実を語る。

 生きたいならば邪魔なものを潰してしまえ。そいつが。そいつがお父さんに、自分の仕事の事を母親に話すなと口止めをして、最後の最後になって迷わせた挙句に母親に自分から伝えたのだ。

 母親を狂わせたのはそいつだぞ?

 お父さんが死ぬ原因を作ったのはそいつだぞ?

「許してあげるよ。だからおいで。おじさんと一緒に暮らそう」

 優しげな声。かつては暖かくも感じたその掌。けれど今は気持ち悪いだけだ。


 生きていたい/殺してしまえ。

 縋りたい/殺してしまえ。

 どうすればいい/殺してしまえ。

 どうすればいい/殺してしまえ。

 どうすれば/殺してしまえ。

 殺せばいい/殺してしまえ。

 殺してしまえ殺してしまえ。

 殺せ殺せ殺してしまえ。

 殺せ殺せ殺せ


 そうだ、こいつを殺してしまえばいい。恨みはある。

 殺してしまえば。きっと、今よりも幸せに生きる事ができる。


 殺せ殺せ殺せ


 殺せ殺せ/縁があれば。

 殺せ/縁があれば/縁があれば。

 縁があれば/縁があれば/縁があれば。



「今晩は、太田唯(ユイ)さん」

 少年が――壊れた扉の前に立っているのが見えた。メガネを掛けていないし、制服を着てないけれど、昼間の少年だという事がわかった。別れ際に見せてくれた、寒気の走るような凄絶な笑みを浮かべて立っている。

 彼は黒く、所々白い刺繍の入ったゆったりとしたモノを着ていた。確か、アレはローブだ。

 相沢さんが私の肩を掴んだまま、そちらを見る。

「なんだキミ。今こっちは取り込んでるんだ」

 スーツの男が身構える。彼は荒事のプロだ。私のことを知って義憤に燃える人間は、彼に伸されて去っていった。

 少年は不愉快そうに口の端を歪める。

「お前達に、“生命”の権利を与えた覚えは無いよ」


 目には何も映らなかった。気付いたらスーツの男の体が弾け飛んでいて、部屋が血飛沫に彩られていた。

 相沢さんがその場にへたり込む。私は立つ事も忘れて、君臨した絶対者を見つめている。血を浴びた私と、何物にも穢されぬ黒い衣の少年。なにか言葉が出そうで、でも全ては言葉にならなかった。

 少年が手を差し出して微笑んでいる。

 それだけで浮かびかけた言葉は瞬時に言葉になり、吐き出された。

「私を、」

 見つけた。

「助けて」

 私を救ってくれる絶対的なモノ/悪魔的な存在。

 這っていた相沢が砕け散った。血飛沫すら浴びずに、それの顔面を踏み潰した足を上げて彼はこちらに歩いてくる。私は自然に跪いていた。昼と同じように涙が流れる。暖かい。ただひたすらに。

 彼は私を抱き締める/私は抱き締められる。

 名前も知らない彼は、暖かい抱擁の後、囁いた。

「共に往こう、僕は唯を必要としてる」

 答えは決まっている。私は涙を零しながら彼の体を抱き締めて応えた。

 彼は私を求めてる/私に求めてる。



 古い箱の中から、昔母親の着ていた服を見つけた。質素だけど綺麗な作りの服で、体に付いた血を洗い落としてからそれを着た。荷物はそれ以外に要らない。それを着て初めて、母親――お母さんの温もりを感じた気がした。

 相沢は居ない。もう私を縛るモノはない。

 共に往く。

「準備はもう良いの?」

 彼は笑みを向けてくれる。私も微笑む。久し振りに心から笑えた気がする。

「じゃあ、唯。僕の力になって」

「うん」

 私は頷いた。彼が救ってくれたんだ。私の命も幸福も、彼のもの。

 もう私は穢れない。

「ねぇ」

 歩き出そうとした彼の背中に声を掛ける。彼は振り向いて、首を傾げた。

「君の名前は、何ていうの?」

 彼は真っ直ぐと天を指差した。夜空の雲が裂け、銀月が顔を覗かせている。指差す彼は、ゾッとするような笑みを浮かべていた。そして絶対者は口を開く。




「僕の名は――天夜だ」




 救済者/絶対者はそう告げた。





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