天夜奇想譚

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だれでも歓迎! 編集

作者:グリム

タイトル:月下、彼の窓辺/side out 2/2






 二日目、三人は今晩、ビル街に行くように話し合い、決めた。それまでの時間は各自で行動する。そしてトウカは――とある病院を訪ねていた。昨日の病院とは違う、機関の息が掛かった天夜市総合病院。

 施設は清潔で、整っている。幾らか通常の入院患者も居て、ロビーは普通の病院と変わらない。

 トウカは無表情にそのロビーを通りすぎ、廊下のどん詰まりにある、『staff only』と書かれた鉄の扉の前に立った。人が居ないことを確認して扉を開く。その向こう側には狭い空間と、小汚い感じのエレベーターがあった。躊躇い無くその中に入ると、三つあるボタンの内、一番下のボタンを押す。

 扉が閉まり、間を空けて開く。

 その向こうは長く暗い廊下だった。目を慣らさない内に、トウカはどんどん突き進んでいく。その廊下は静かで、空調の音以外はトウカの足音しか聞こえない。そしてある扉の前でトウカは足を止めた。扉の横にあるネームプレートを確認して、中に入る。

 部屋は一枚のガラスで隔たれていた。ただしガラスは異様に分厚いし、四つの角には何らかの術式が刻まれている。収容所の面会室、それがピッタリの表現だろう。

 トウカは一歩踏み出して、ふと首を傾げた。空調の故障だろうか、やけに室内が冷えてる。その上、ガラスが曇っている。ガラスに近付くと、寒さは更に増した。

「……誰?」

 ガラスの向こうで、少女のものと思われる声がした。曇ったガラスの向こうで、小柄な少女が椅子に腰掛けているような動作がトウカには確認できた。

「機関の者です。あなたは、鳳雅さんと接触したことがありますね」

 淡々とした質問。向こうの少女は頷くような動きを見せた。

「中学校の時……一年生の時だったかな。鳳君とはクラスメイトでした」

 思い出すように向こうの少女は答えた。トウカは用意されていた椅子に腰掛けると、軽くメモを取る。シャープペンシルを動かすトウカは、何処までも淡々としていた。

 メモを書き終え、質問を続ける。

「彼はどんな人でしたか」

 答えはすぐには返って来なかった。別に考えている風でもない。

 トウカが妙に思って顔を上げると、向こうの少女は曇って見えない向こう側から、ジッとトウカの事を見ていた。無表情にトウカも向こうの少女を見つめる。

「……とても、希薄な人でした。存在が、とかじゃなくて。現実感が薄い人、でした」

 途切れ途切れに答えが来る。

「いつも外を見て、空を飛べるとか……本当に、周りには無関心で」

 僅かにトウカがその言葉に反応する。だが、特に何も言わない。

「――彼は、“なった”んですね?」

 その言葉には確信の色があった。向こうの少女の言葉に、トウカは答えない。答える必要が無い。

「……分かりました。ご協力感謝します」

 形ばかりの謝辞の言葉を述べて、彼女は立ち上がる。

 入ってまだ五分しか経っていない。質問も二つだけ。トウカはその五分と言う短い時間と、二つと言う僅かな質問で、これ以上の問答は無用だと判断した。

 踵を返し、扉に手を掛けて、


「よく似てます」


 向こうの少女の言葉に、動きを止めた。

「彼と貴女は、とてもよく似てます」

 振り返るトウカ。その顔は、最早無表情、と形容できるようなモノではなかった。“虚無”。その言葉が相応しい。

 それは染め上げられていない、純白にも見えた。

「周りに関心が無くて、常に危うい雰囲気を纏っている」

「……」

 沈黙して向こうの少女の言葉に耳を傾ける。

「生まれながら人間。けど、考え方とか雰囲気は、人間じゃ無い」

 向こうの少女は椅子から立ち上がった。

「――いつか貴女も、こっち側に来る」

 ひたり、と。

 小さな音がして、少女のものと思われる細く小さな掌が向こう側から押し当てられた。

 誘うように。トウカは、今にもそれが掴めてしまいそうだと錯覚した。目を一度閉じて、開く。そんなものは、やはり錯覚でしかなかった。押し当てられた掌がゆっくり離れる。

 曇ったガラスの向こうから、少女はジッとトウカを見つめていた。

「……私を巻き込みたいの? そんなにそっち側が気に入ってるの?」

 トウカの質問は冷ややかだった。そして、顔色は、果てし無く無色。

 ふと、向こうの少女が首を傾げるような動作をした。トウカには、それが小首を傾げて微笑んでいるのだと分かった。スッと、部屋の温度が下がる。曇り方も先程より酷くなってる気がした。

「そっち側が羨ましいです。こっち側は――やっぱり、寒いですから」

 その言葉は寂しげだった。

「……さようなら」

 どこか決別するように、トウカは告げた。向こうの少女は微笑んでいたのだろうか、無表情だったのだろうか。もう向こう側を覗こうとしないトウカには分からなかった。

 横目でネームプレートを見る。そして、再び、今度は確かな決別を告げた。

「さようなら、深雪さん」




 去っていた少女の背中を眺めながら、雪女は微笑んでいた。頬には暖かい雫。

 背後で扉が開く。

「面会は終わったようですね」

 藍色の外套を纏った、針金のようなメガネの男が室内に入ってくる。寒そうに肩を震わせて、自然な笑みを貼り付けている。彼の後ろ、扉の向こうには数人の黒服が控えていた。

 雪女は涙を拭った。

「……どうかされましたか?」

 ふと、笑みを引っ込めて男が尋ねる。

「私は、いつか向こう側へ戻れるんですか?」

 質問に男は押し黙る。

「――いえ、いいです」

 少しだけ上ずった声。雪女は寂しげに微笑んだ。

 その様子を見て済まなそうに、男が言う。

「申し訳ありません。午後の実験が控えておりますので、こちらへ」

 雪女は頷いて、名残惜しそうにガラスの向こう側を見つめる。

 ――いつか戻れるかな、時枷君。





 二日目の夜は、満月だった。

 人気の無いビル街を三人は歩く。オフィスから漏れる光も無く、人払いは完璧だ。三人は人払いを行使していないので、これは犯人のものだろう。警戒しつつ、三人は路地を探っていく。

 しかし零時を過ぎても、人影すら見つけることができない。

「……厄介ですね、これは。相手のワーウルフも術式を行使するのでしょうか」

「んー、私のと同じだったらどうしようもないよね」

 瀬良の呟きに、明が返す。トウカは静かに、表情無く押し黙ったまま。

「これ、使っちゃう?」

 明が布袋から錠剤を一つ取り出した。狼男とその眷族を呼び出す術式。当初はこれを使う予定だったが、事件の多発しているビル街で使うのは自殺行為だと言う瀬良の提案で今まで使っていなかった。

 しかし、こうも出くわさないとなると、話は変わってくる。

 可能性は二つ。

 一つ目はこのビル街に犯人がいないと言うこと。

 二つ目は犯人がこちらの動向を窺っているのではないかと言うこと。

 もし後者ならば自分達の有利な地形に誘い出した方が良いし、最悪、前者でも錠剤の効果で少し離れた繁華街まで術を発動することができる。少なくとも、損は無いはずだ。

「止むを得ません。後手に回るよりも幾分マシでしょう」

 頷くと、錠剤を口に放り込む。

 ぱりぽり。

「マズゥ~イ、もう一個」

「……明君。それは飲み薬だと思うのだが」

 錠剤は漢方薬の濃度を三倍にしたように強烈な臭いで、とても美味そうではないのだが、明は二個目にまで手を伸ばそうとする。しかし瀬良に抑止され、二個目を食べる事は無かった。

 半ば呆れていた瀬良も、そして辺りを見回していたトウカも、それぞれ戦闘に備える。瀬良は両の手に手袋を嵌め、トウカは中指に紐のついた鈴を通す。明もその二人の様子を見て、慌ててナイフを取り出した。

 各々、戦闘体勢に入る。

 ……

 ……

 何も起きない。

「……何も、起きないね」

 一陣の風が吹く。

「そのようですね。ビル街は外れでしたか……」

 トウカは空を見上げる。ビルのせいで切り取られた夜空に、満月が浮かんでいる。

「場所を変えましょう。昨日のように被害者を出しては元も子もありません」

 踵を返した瀬良に、明は慌てて付いて行こうとする。しかし二人は、路地から出たところで歩みを止めた。瀬良が振り向き、明が釣られるように振り向く。トウカは空を見上げたまま、先ほどの場所から動いていなかった。

 二人は首を傾げ、トウカの下まで歩み寄る。

「どうかしましたか?」

 瀬良の質問にトウカが視線を下ろす。

「今までの被害者は、全員墜落死でしたよね」

「え? ええ」

 戸惑う瀬良に一瞥くれると、トウカはまた空を見上げた。満月が汚れたビルの合間を照らしてる。

「トウカさん、何かあったの?」

 一緒になって明が上を見る。満月が輝いていた。

 瀬良も月を見上げる。

 やけに大きく見える満月。それを背に、白い白い装束を纏った影が、こちらを見下ろしていた。亡霊のように希薄でありながら、深く刻まれるような存在を放つ。

「屋上へ行きましょう。鳳を、肉眼で確認しました」

 果てし無く事務的に、トウカは言った。





 吹き荒ぶ風。

 ビルの屋上で彼は待ち構えていた。見たところ、年は十五か、それより下か。白い病人服に、切り揃えられた髪。整った顔立ち。そして何より、空ろな色を携えた瞳が印象的な少年だった。彼の周りには、彼を賛美するかのように白い布が舞っている。亡霊が踊っている。

 三人は武器を構えた。彼――鳳雅は、そのようすをぼんやりと見ていた。

「なるほど」

 得心したように瀬良が呟く。

「ワーウルフかと思っていましたが……まさかネクロマンサーと出会うとは、さすがに予想外でした」

 死霊使い。悪魔と契約を交わした人間が堕ちる異形。

「同意の上で、人を捨てた異形ですか。こちらとしてもそちらの方が心は痛まない」


 異形とは、本来、純正な異形の放つ気にあてられて汚染され成るものだ。しかしそればかりではない。人は常に、堕ちて行く。ネクロマンサー、そして魔女が歴史上では有名である。

 彼らは異形と言う存在をその身に“受け容れて”そのような存在になる。


「――ヒトじゃ、足りないんですよ」

 背筋を撫で上げるような、低く冷淡な声だった。雅は空ろな視線で真っ直ぐ三人を射抜く。踊っていた亡霊達も徐々に三人を囲む形になっていく。その数は、昨晩の比ではない。

 どうやら、ここが敵の本拠地らしい。亡霊は次から次へと沸いて出る。

「これは今まで殺した人間?」

「ええ。ヒトは飛ぶことはできないから、悲しいでしょう?」

 明の質問にも、やはり空ろな答えが返って来た。

 死霊使いの能力は“死者使役”。異形によって形状は様々ではあるが、死者を使役する能力を持つ。そして使役する死者は、必ず“自らが殺した”死者で無ければならない。亡霊の数は、それだけの殺人の証明でもあった。

「随分と、性質の悪いモノと契約を立てたようだ」

 やれやれ、と瀬良が呆れたように息を吐く。亡霊はこれ以上増えないようだが、決して狭くない屋上一帯を囲むだけの数が居る。退路は無いものと思うべきだろう。

「退魔士の“ナカマ”なんて初めてですけど――なってくれますよね?」

 返答は、鈴の音と、

「曲霊、猛よ、争魂」

 言霊と同時に放たれた、強烈な光だった。吹き荒ぶ屋上の風を切り裂き、その地面を薄く捲りあげながら放たれる攻撃特化の大砲。雅はその直線的な動きを躱す。真横を通り過ぎていった光は柵を砕いて更に背後に居た亡霊を巻き込んで夜空へと溶けた。

「グラン、ギニョール」

 回避した先で待っていたのは、麗しい二人の女性。血も通わぬ人形の、容赦無い連打。

 雅は繰り出される攻撃を華奢な腕で払い、いなし、一瞬の隙をついて弾き飛ばした。引き戻し、人形に受身の体勢を取らせた瀬良に、僅かに喜色が浮かぶ。

「さすがにやりますね。それでこそ戦い甲斐がある」

 そして両の手を振り上げた。

 右から顔面を狙った拳。左から腹を狙った膝蹴り。雅は拳を受け止め、膝蹴りを躱す。そこですかさず、瀬良は左腕を横へ広げた。膝蹴りを躱された人形が、その繰り出した足を軸にしての回し蹴り。避けきれず、それは胴を直撃した。

 呻く雅に対して、二体の人形によるワンツーブロー。

「――く、ぅ」

「争魂」

 怯んだそこに、禍々しい光が直進する。しかし真正面から放たれたそれはあっさりと見切られ、脇を通り過ぎていく。

 だがトウカは、回避を許さない。

「覚れ、狂魂」

 雅の背後で光が砕けた。その欠片が背中を灼き、地面にばら撒かれる。死の宣告を告げるように、呻く雅の耳に、鈴の音が聞こえる。真っ直ぐ彼を捉えるトウカは無表情だった。

「再び猛よ、争魂」

 破片が強い光を宿し、光の槍が雅を串刺しにした。

「かは――ッ」

 戦況はどう見ても一方的だった。明はしばしその二人の連携に見とれていたが、徐々に違和感を感じ始める。

 敵が、抵抗していない。――観察?

 しかし、全員その本質には気付いていない。

「なるほど、そういうことか」

 ぽつり、と。今まで連打を叩き込められてた雅が呟く。迫り来る光の弾丸を片腕で弾き、残ったもう一方の腕で人形の連携を受け流す。そして、風でなびかれるように後退。瀬良も人形を隣まで戻し、トウカもその場に踏みとどまる。

 雅は片腕を天へ突き出した。

「今度は、」

 そこでようやく、明は気付いた。周りの亡霊の群れが、なくなってる。

「僕の番だ」

 風が止む。同時にトウカが攻撃を止めて一歩退いた。それから一瞬遅れて、黒い腕がその地面を射抜く。目の前には、真っ黒に染め上げられた布が舞っていた。明らかに今までの亡霊と違う。

 すでに悪霊と呼べる代物だ。

 そいつは顔を上げると、ゾッとするような笑みをトウカに向け、腕を振るう。横薙ぎ、トウカには当たらない。地面を巻き込んだ振り上げ、石の欠片一つもトウカを掠らない。倭姫命の術式は健在。悪霊の攻撃は掠りもせず、トウカはその場に立っていた。悪霊は口の端を更に吊り上げ、次の攻撃に移る。

「随分と無粋ですねぇ――ッ」

 風を切って、二体の人形が間に割って入る。そして流れるような攻撃。拳。肘。膝。そしてまた拳。仰け反った所に、トウカが掌を向ける。

「曲霊、――」

 しかし。

 悪霊の腹が不気味に裂けた。

「“ガイストハンド”」

 嗤う。

「ッ――!」

 トウカは放たれた攻撃の直撃を受け、地面を転がる。

 人形を手元に戻しながら、瀬良は憎憎しげに呟く。

「亡霊の集合、更に――改造まで行ったのですか。異形風情が」

 雅の真横に黒い影が舞い降りる。足は無く、ばたばたと黒い布がたなびいている。左右に伸ばす黒い腕。口と目だけが白く刳り貫かれた影絵のような顔。そして、腹の裂け目から生えた、死人のような青白い腕。その腕には異様に長く、関節は三つ。しかも有り得ない方向に曲がって鎌首をもたげている。

 瀬良は手元に戻した人形を突撃させる。

 しかし悪霊は笑みのまま、その場から動かない。不気味な軌跡を残して、弾丸のような速度で腕が瀬良に迫る。

 それが瀬良に到達するよりも早く、人形達がその腕を阻んだ。勢いは殺しきれず、人形が乾いた音を立てて転がる。人形の体に幾つかの亀裂が入り、瀬良は表情を歪ませる。

「私の人形を、よくも……」

 人形が瀬良の元へと戻る。

「ああ……美しい顔に傷を……貴様、万死に値する」

「――たかが、人形じゃ無いか」

 その言葉が瀬良の堪忍袋の限界だった。人形が悪霊に向かって走る。

 悪霊は先ほどと同じように瀬良に向かって腕を放つ。人形は戻らなかった。代わりに、腕が横合いから放たれた光で吹き飛ぶ。切り離された腕が地面に転がり、その間に人形は悪霊の目の前に立っていた。

 それからの処理は迅速だった。人形が放った拳が影絵のような悪霊の顔面を穿ち、胸、腹と順々に穴を開けていく。悲鳴を上げる事もできず、悪霊は四散した。

「……ふむ」

 雅はポツリと言葉を漏らし、屋上の端まで後退する。

 二人はそれぞれの術式を構える。

「これでチェックメイトです」

 勝ち誇ったような瀬良の台詞。しかし雅は怯えた様子も無く、そしてこの状況を見ているかも怪しい空ろな表情だった。風が吹き、雅の病人服がはためく。ふと、雅が笑みを浮かべた。

 あの悪霊なんて足元にも及ばない厭な笑み。

「――汲み上げた魔力を切れない糸に変換して人形を操る術式」

 瀬良はその言葉に眉をひそめた。

「汲み上げる限界の魔力を自由自在に射出、分散する術式。魔力のある限り攻撃の当たる概念を捻じ曲げる防護術式。攻撃中には自分は無防備になる」

 無表情にトウカは掌を向ける。

「術式は人間が生み出したオモチャに過ぎない。タネが分かればそこまで」

 雅は空ろな表情で告げていた。片腕を振り上げる。

「ヒトの辿り着ける最果て」

 体が徐々に浮かび上がる。雅の体に裂け目が生まれ、ゆっくりと向こう側から押し開き始める。

 開いた向こう側は黒い虚空。ぬっ、と、一本の青白い腕が裂け目から生える。攻撃を待つまでも無い、瀬良は人形を走らせた。トウカは鈴を鳴らし、光を放つ。

 必殺。

 しかし、届かない。

「――それが限界」

 裂け目から、腕が我先にと殺到した。

「“ポルターガイスト”」

 無音の騒音。溢れ出た腕が光に砕け、人形にへし折られ、それでも腕は尽きずに襲い掛かる。疾る。殺到する。光は腕に呑まれ、人形は腕に蹂躙され、二人はその腕に地面に叩きつけられた。

 殺到した腕は消える。悪夢のような光景は数十秒と続かない。しかし、二人は地に伏せ、人形は無残にも砕かれた。

 王者のように佇む雅、それ以外に立つものは居ない。

「脆い、脆い。ヒトは脆い」

 雅が悠然と歩み、トウカを見下ろす。その瞳には、微かな喜びを。

「僕の側に来ないか。君と僕は同じだ」

 しゃがみ込んで手を差し出す。

「空虚なセカイに、脆いヒトに嫌気が差さないか。その枠から、解放されたくないか。僕が空を飛ぶことを叶えられたように、君の願いも叶うかもしれない」

 今までの空ろな声とは違う、打って変わって甘い言葉だった。差し出された死人のような青白い手にも慈悲があるように錯覚してしまう。トウカはその言葉には答えない。

 ただ、ゆっくりと。差し出された手に、自分の手を伸ばした。

 その時の雅の笑みは、今迄で一番歪んでいた。



 差し出された手は払われる。



 乾いた音がした。雅は、信じられないような表情をしている。トウカはゆっくりと、自分の足で立ち上がった。

「私に願いなんて、無い」

 その言葉は、拒絶であり、聞くものにはすでにあちら側のモノにも聞こえた。立ち上がったトウカの額は割れて血が流れ、手には鈴が無い。周りに纏う神聖な雰囲気も失われている。彼女には身を守るものも、害に対抗する武器も無い。

 雅は悲しげな表情をした後、空ろな言葉を吐いた。

「“ポルターガイスト”」

 青白い腕が裂け目から溢れる。

「君と僕は同じだ。こちらに来ない?」

 最後通牒。トウカは答えなかった。

 殺到した腕が少女を呑み込まんと猛進する。無音の騒音。死霊使い、鳳雅の致死の怨念。

「私は、」

 しかし少女はそんな事には無関心に。

「貴方とは違う」

 告げる。

「ならここで、死ね」


「恥じ、悔い、畏れ、覚り、此処に集う」


 光が弾けた。それだけで腕が吹き飛ぶ。しかし全ては消えず、腕は尚もトウカへと殺到する。美しい光に群がる愚かなる蛾。近付けば身を焦がし、逃げようとすれば呑まれる。

 気がつけば、トウカの露出した手、顔に幾重もの黒いラインが走っていた。

 ペイント術式。それがトウカの体中に蔓延る。鈴はフェイク。己の限界の魔力を吐き出す術式、そして自分に神性を加える術式のどちらも、何かの媒体にするよりもこちらの方が都合が良い。

「集いて、砕け。曲霊、一霊四魂」

 圧倒的な銀の輝きが、青白い腕を一掃する。

 壊し、灼き、進む。

 孕み、砕け、舞い、空を飾る。

 ひしゃげ、破れた金網の向こうは歓楽街。邪魔なモノは壊れ、綺麗に夜景が見えた。それを背景にして、少年は立ち上がる。表情は空ろ。まだ終わっていない。死霊使いは倒れない。

「……なる、ほど……身を削り続けるその戦い方、本当に君はヒト?」

 疑問符に対する答えは無い。

 薄く裂けた皮膚から滲み出る赤。息は荒く、瞳の光は濁っている。トウカは立っているのがやっとの状態だった。身に纏う神性は消え、戦う術はただ前傾するのみ。

 お互いに満身創痍。トウカが放つ攻撃は必殺。しかし自分の体も保たない。雅が放つ攻撃は必殺。防がれようとも防ぐべき術式でトウカは自壊する。二人の間では既に決着がついていた。

 そう、二人の間では。


「ファム、ファタール」


 黒い人影が駆け抜け、流れるような一撃を加える。

「こちらを無視とは余りにも酷いじゃあないですか、ゴースト」

 瀬良は笑いながら、悠然と立っていた。対して雅は地に伏せっていた。それを見下ろすのは、黒髪のドレスを纏った麗人。見下ろす瞳はどこまでも冷ややかで、切り裂くように鋭い。

 頭蓋を速やかに粉砕するために足を振り上げ、落とす。

 雅は三本目の腕で跳ね起きてその一撃を躱す。しかし、躱した先に麗人の回し蹴り。雅はそれを片腕で防ぐ。通常の打撃ならば問題なく捌ける。だが、――その足から炎が吹き出す。

「塵は塵に」

 肉の焼ける臭い。炎の蹴りが雅の腕を焼いていた。苦痛に顔を歪める。しかし追撃は勢いを増す。三発、四発。蹴りが放たれる度に炎は大きくなっていく。

「が、ぐ――」

 ガードが崩される。麗人は笑う。

「灰は灰に」

 大きく振りかぶり、炎を纏った掌底を叩き込んだ。雅が仰け反る。そこに蹴り、肘、蹴りの連携。その一撃は全て烙印のように雅の体に刻み込まれる。しかし死霊使いは倒れない。

 火傷を幾つも残しながら、後退する。

「悪趣味な人形だ」

 ファム・ファタール。運命の女を指し、また男を破滅させる悪女を指す。彼の術式名は“運命的人形狂想”、先ほどまで扱っていた術式とは全くの別物。先ほどの格闘一辺倒の人形とは違い、こちらは発火の術式を使う。そして格闘の性能も格段に上がっている。彼にとっての最高傑作だ。しかしその精密さから一体しか操れない。

 麗人の猛攻は続く。逃げる先々に炎の打撃を加え、徐々に逃げ場を奪っていく。彼の扱っていたポルターガイストを呼び出す暇も与えず、業火で身を削っていく。

 瀬良がゆっくりと両腕を広げる。

 連動するように炎の演舞が鋭さを、橙の軌跡を増していく。掠るだけでも身を焦がす連打は少しずつ雅の体力を奪う。

 そして雅の体がふらつく、麗人が見計らって強力な踵落としを右肩に叩き込んだ。鈍い、骨の外れる音と肉が焼け焦げる音。それに苦悶の声が混じる。

「捕らえた……ッ!」

 雅は落とされた足を受け止めていた。砕けた肩の骨を無視し、右腕を麗人の足に巻きつける。

「今度は避けられない。“ポルターガイ――ッ」

 ヒュウ、と空気が漏れる音のせいでそれ以上の言葉は紡げなかった。

 否。

 喉笛を掻っ切られ、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。

「天狗ノ隠レ蓑……」

 溢れ出る血飛沫が地面を濡らす。麗人の姿は無い。そこにはコートを羽織った少女が一人。手には術式の刻まれたナイフ。夜闇から溶けるように姿を現した明は切り裂きながら雅に背を向けて歩き出した。

「さっきあなたはタネが分かればそれまでって言ってたけど」

 雅の体が傾ぐ。

「分からない間に倒せば、人が異形に届かない道理は無いよ」

 そしてそのまま、自分で築いた血の海に落ちた。




「見事です、明君」

 手袋を外して瀬良は拍手する。しかし明の表情は若干さえない。気に障ったと思ったか、瀬良はそれを止めた。それからボロボロになったトウカを見やる。衣服は少し焼け焦げ、肩まである髪は乱れていた。彼女はそれを直そうともせず倒れている雅を見つめている。

 風が吹く、明は振り返った。雅が幽鬼のように立っている。病人服は血に汚れ焦げ、体中に火傷の跡。

 瞳の色は相変わらず空ろだった。

「……本当に、してやられたよ」

 一歩ずつ後退していく。彼の背後にはひしゃげて破けた金網。更に向こうには、夜景。

「驚きましたね……ナイフの傷とは言え、そこまで早く回復するとは」

「これでも無理してるよ。人形に殴られても、光を撃たれても、今なら死ねる」

 空ろな表情で、どこか笑うように雅は言った。そして、その足が絶壁の目前で止まる。彼はトウカをジッと見つめていた。トウカの方も無表情に見つめ返した。

 誰も動かない。

 風の音がうるさいぐらいに、静か。

「君は、きっと僕の側に来る。なんと言おうと違わない、君は、“こっち側”だ」

 返す言葉は無い。ただ見つめ返す。

「――ヒトは異形に届かない。異形は、いつだって人の背後に立ち、殺すことができる」

 その台詞は明に向けてのものだった。その言葉にただ黙り込む。

「……それで? 私共を殺せる異形は、これからどんな事をしてくれるのですか?」

 嘲るような瀬良の台詞にも、雅は空ろな表情を向けるだけだった。その動作に瀬良は目を細める。

 唐突に、雅が笑みを浮かべた。空虚な、どこまでも希薄な。

「空を飛ぶ。僕が人でないことを証明する――お前等になんか殺されない」

 最後だけ、必死な言葉だった。人の言葉だった。

 考えるよりも先に、明は動いていた。しかしもう遅い。雅の華奢な体は後ろに傾ぎ、天に向かって手を伸ばして。


「ヒトは、空を飛べなかった」


 伸ばした腕は空を切り、明の目の前で、彼は飛び立った。

 地面へ。

 奈落へ。

 ぐちゃ、と、嫌な羽音がした。





 待ち望んだ空は遠かった。

 夢は叶わず、飛べなかった僕を満月が嗤ってる。

 ビルに切り取られた空はあの頃の空と似ていた。

 ああ、なんだ。

 結局僕は、あそこから出られなかったのか。

 ――最後まで窓辺からの景色以外、見られなかったのか――





「よう」

 廃墟を訪ねてきたのは、少女だった。長い髪を切りそろえた、日本人的な美人。でも、明が一番会いたくない人物だった。一応笑顔を作ったが、それはどこか引き攣っている。

 アヤメはそれに気付いているのか分からない。ただ、明は早く帰ってくれと願っていた。

「今回の事件はこれで完了、もう次回は無いってことらしいよ」

 薄っぺらな書類が、ひらりと明の目の前に放られる。それには機関から依頼料が支払われた旨、機関が明に対して感謝している旨などが書かれていたが、明は特に目は通さなかった。

「ああ、それと言われた通り、銀の術式は追加報酬らしいから好きにして良いって」

 事件当時に配布された術式だが、結局相手が狼男ではなかったため使うことができず、手付かずのまま残っていた。明は術式の研究のために追加報酬として要請したが、どうやらそれが通ったらしい。

 明は頷く。そして表情を綻ばせた。

 しかしそれも一瞬のことで、アヤメと目を合わせると固くなる。

「どうしたの?」

「な、なんでもない」

 目を逸らし、明は口篭りながらそう言った。

「……そうそう、蔵野さん」

 人懐こい、とても綺麗な微笑み。

 一瞬だけ明の心が傾きかけた。しかし、凍りつく。

「――楽しかっただろ?」

 微笑とは似つかない、攻撃的な口調でアヤメは言った。蛇に睨まれた蛙のように、明は身じろぎすらできない。アヤメの笑みが段々と歪んでいく。狩猟者のそれに。

 明が彼女に感じているのは、純粋な恐怖だった。

「死霊使い、大量に亡霊従えてたって聞いたし……あー、参加できなかったのが残念だ」

 本当に残念そうにアヤメは呟く。

 その間は何も喋ることができない明。

 アヤメはその表情を見て、満足げに踵を返した。

 やっと帰ってくれる、明は安堵した時、明に後ろを向けたまま、アヤメが口を開く。

「――今度は俺も誘ってくれよ?」

 そのまま明は床にへたり込んだ。

 あの子には二度と会いたくない。そんな事を思いながら。

 後日談であるが、彼女の元に報酬である米が届くことは無かった。輸送途中で巨大な蛇に奪われたとかどうとか。真実は闇の中だ。





 白い立方体の部屋、上の方にはマジックミラー。機関の浄化と治療を受け、これから退院の手続きがある。終わればまた、ここに入る前と同じような繰り返しの生活が待っている。

 トウカは椅子に腰掛けたまま俯いていた。

『お疲れ様です』

 マイクを通した不鮮明な声が白い部屋に満ちていく。トウカは俯いたまま黙り込む。

『今回の報酬は通常の手続きで正規に――』

 ……

『――?』

 ……

『――』

 ……


『君は、“こっち側”だ』

「――ッ!?」

 驚いたような表情で、トウカが顔を上げた。

『……ど、どうかしましたか?』

 “声”も驚いている。

「なんでもありません」

 ……私は、違う。

『では車を出しますので少しの間辛抱してくださいね』

 白い空間に黒い裂け目が生まれる。またあの時のように青白い腕が伸びて来るような気がして、トウカは自然に身構えていた。しかし向こう側から現れたのは黒服の人間達。

 迅速に目隠しをして彼女を誘導していく。

 音の無い廊下。しかし、トウカの耳には飛び立った少年の言葉がいつまでも響いている。



「ふ、むぅ」

 マジックミラーの向こう側で、“声”の女性が唸った。

「引き続き、山谷トウカの監視を」

 後ろに控えていた人影は一礼して去っていく。白い部屋には、もう誰も居ない。






「ブラザー月ヶ谷」

「ああ、セラ君。今日出発だったかな?」

 西日がステンドグラスを美しく彩る、その礼拝堂に初老の男と若い男が向かい合って立っていた。静かにシスターがセラの横に荷物を置き、一礼して去っていく。セラはその様子を見て素晴らしい、と呟いていた。

 シスターが去ってしばらく、静寂だった。

「今回の件は素晴らしいですよ。ゆっくり休暇を楽しんできてください」

 薄く目を開き、温和な笑みを浮かべて月ヶ谷が告げる。セラは頷いて返した。

「ええ、この国で、素晴らしい人形候補を探して回ります。今週末には戻ってきますので」

 今週末、と言う言葉にピクリと月ヶ谷が反応する。

 そしてセラはニヤリと歪んだ笑みを零した。

「ナースとの合コン、あと一人をちゃんと揃えてくださいね。三対三なんですから」

 静謐な、或いは厳粛な空気が一撃でぶっ壊される。

 セラは一日目の鳳雅の入院していた病院で情報収集の時、ちゃっかりそこのナースとの合コンの約束を取り付けたのだ。そしてそれを月ヶ谷に話したところ、ノリにノって、月ヶ谷が一人誰かを誘い、三対三で合コンが今週末決行されることになったのだ。

 ……この二人、一応神父であり、教会の信徒である。

「もちろんです。手筈通りに」

 返す月ヶ谷の言葉は、それだけ取れば真面目なのだが、内容が内容だけに、酷く呆れるものだ。

 そうして二人はしばし、幻想的な空間をぶち壊す合コントークに花を咲かせる。

「おや、そろそろ時間では?」

「もうそんな時間でしたか、いやはや……楽しい時間は早く過ぎるものですね」

 セラは酷く残念そうに呟いた。

「いえいえ。これからが待ち遠しいのですよ」

 神父らしい月ヶ谷の台詞。内容を知れば呆れ果てる。

「それでは私はこれで」

 はっはっは、と笑いながら踵を返し、セラは入り口へと歩を進める。

「ああ、セラ君」

 それを呼び止め、月ヶ谷はセラに近寄った。その二人の間にだけ、無音の空間が作られる。防音式。内界の声を漏らさず、外界の音を遮断する術式。セラは怪訝そうな顔をして月ヶ谷を見る。

 月ヶ谷は笑っていた。

「鳳雅の異形核は滞りなく回収しました。次の地に赴き、連携を取って迅速に回収を進めてください」

 セラは微笑み、十字を切る。

「神の御心のままに」

 同じように、月ヶ谷も十字を切った。

「全ては神の御心のまま」

 ……そして、セラは天夜市を去った。

 今週末には戻ってくる。それまでに準備を済ませねばなるまい。

 月ヶ谷は電話をプッシュする。

「ああ、……今週末空いているかね? 合コンなんだが――」

 どこまで本気か分からない男だった。





 ――夜、落ちた少年に野犬が喰らいついていた。

 柔き皮膚を裂き、骨ばった肉に牙を立てる。溢れ出た血も構わずに食い千切る。地面に赤い斑点と海を作りつつ、淡々と作業のように食い破っていく。引き裂いた体から露出した臓器に爪を立て、飛び出した血と汚物を見て歪んだ笑みを漏らし、ゆっくりとそれに牙を立てる。

 ケダモノの晩餐。

 内臓を味わった後は指からゆっくりと肘まで喰らっていく。骨ごと噛み砕き、流れ出る赤に歓喜の遠吠えを上げる。次はナイフの切り傷のある首元。かぶりつき、首が落ちる。転がったそれに見向きもせずに貪る。

 それに飽きたら、足を切り落とした。

 そして、“術式”を起動する。

 水に濡れた手を頭に乗せ、それを東に向ける。

「バプテスマ、主の死と葬り、復活として主と一つに」

 その掌には不恰好な結晶が生まれた。その中には黒々とした光が蠢いている。

「死霊使いの異形核、確かに」

 血に塗れたそれはゆっくりと立ち上がる。シルエットは人ではない。逆立つ体毛、巨大な痩躯。獣の腕。狼の頭。それは異形、人狼そのままだった。そいつは鳳雅の死体を見下ろしている。

 そして、鼻で笑った。

「雅よ……我が目的のため、使わせてもらうぞ」

 髪を掴んで死体の首を持ち上げる。その姿はどこまでも背徳的だった。


「――ほう、では貴方がことの元凶、と言う事で間違いありませんか?」


 人狼は目の前に浮かび上がった藍色の外套を纏った男の姿を捉える。メガネを掛けて長身痩躯、しかし自分を見つけられた以上相手は普通では無い。

 身構える。

「何者だ、貴様」

「ああ。すみません」

 砂を擦るような音が聞こえ、人狼の銀の体毛が舞った。遅れて血飛沫。

「死に逝く者には名前ではなく、弔詞を読むようにしていまして」

 風を切って黒い線が人狼の体を切り裂いていく。人狼はそれを防ごうと腕を振るうが、方向が分からず、空を切るばかり。

 対する外套の男は片手を動かすだけ、それだけで人狼は刻まれていく。

「一つ、如何ですか。折角の満月の夜です」

 ふざけたような態度。人狼は攻撃を振り払うのを止め、男に向かって疾駆した。しかし黒い線はそれを阻むように体を縛り上げる。その正体は、黒塗りのワイヤー。どうやら気付かない内に男の術中に嵌っていたらしい。

 唸りながらも人狼は男を睨みつける。

「何故」

「……何故、貴方を見つけたかと? 簡単です。ある少女の監視中に、野犬がうろついているのが見えただけですよ」

「くっ――くっく、なるほど。我が“隠匿”の属性も視認では意味が無いか」

 笑いながら、人狼は体に巻きついたワイヤーを引き千切った。

「今宵は満月。この程度の紐では私を縛るに足らんぞ」

「失礼しました。ではこんなのは如何か」

 外套の男が笑い、一つ足踏みをする。すると、その男を中心として剣山のような棘の山が広がっていく。人狼は自分の足元にそれが達する前に街灯の上に飛び乗った。外套の男も一つ向こうの街灯に飛び乗っている。その腕には細い剣。

 動くのは人狼の方が早かった。一つの跳躍で二十メートルほどの距離をゼロにして、拳を打ち下ろす。

 だがそこに男の姿は無い。

 街灯が傾ぐ。男はその下に居た。街灯の根元を切り裂き、優雅に笑みを浮かべている。倒れる先は、剣山。その場から手近なビルの室内に飛び込む。三階。

 男が人間ならば駆け上がるのに時間が掛かる。しかし、男は異常だった。ビルの壁に幾つもの杭を打ち込むと、そのまま壁を駆け上がってきた。ものの数秒で人狼の飛び込んだオフィスへと乗り込む。

「……存外にデタラメだな」

「ええ。これでもこの道は長いもので」

 男の手には曲った短剣が握られ、それを投げる。短剣は奇妙な軌跡を描き、背後から人狼を狙う。だがそれは読まれ、デスクに突き刺さった。人狼はそのまま猛進。男はそれを横っ飛びで躱し、外れた攻撃は壁に大穴を作る。

 血が滴る。人狼の左脇腹に三本の杭が打ち込まれていた。

 引きぬく事もせず、そのまま蹴り。受け止めた長剣が砕けるも、男は未だに傷らしい傷は負っていない。

「才覚、か」

「そうです。身体能力は貴方には及びませんが」

 手には細身の双剣。

「錬鉄の速度は異形の身体能力を上回る自信がありますよ」

 二人は対峙したまま膠着した。

 先に人狼が動く。男は駆け、双剣を振り上げる。人狼はそれを躱すと、黒い球体を取り出し、その栓を引き抜いた。球体が床を転がる。男は面食らって叫んだ。

「スタングレネード――ッ!?」

 辺りを光と音が満たした。


 男は立ち上がる。人狼はそれを離れた所から見ていた。

「まさか、そんな妙手があるとは思いませんでした……」

「この勝負は預ける。このままでは我もヘタを過ぎれば殺される」

 ご冗談を、と言って、男は後ろ手に生み出していたダークを床に投げ捨てた。相手があの隙に攻撃してこなかった以上、抵抗は潔くないと思ったからだ。ここの勝負はお預け、と言うこと。

「今宵はこれまでだ。じきに空も白む」

 人狼はそのまま背を向けて、飛び上がった。



 満月は明け、夜が去っていった。







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