天夜奇想譚

far snow―

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作者:グリム

タイトル:狩猟者-寒がりの白雪/far snow-






 駆け抜ける衝動を抑えることができる事はできない。

 悲しみは知らない、哀れみは知らない。

 知らないから、それはきっと喜びだ。

 ――彼女は、そう言って錆色を振り下ろす。




《寒がりの白雪/far snow》




「――起きろ、ミハル」

 揺り起こされる。頭痛が消えたためか、その感覚は心地良い。覚醒しかけた意識が消えかけて、側頭部に押し付けられたゴリッとした鉄の感触に飛び起きた。

 上半身を動かして枕の方を見ると、ショートヘアの姉貴が拳銃なんぞ構えている。表情は不機嫌。もしあのまま起きなかったら確実に頭にトンネルが開通していた。賭けても良い。

「おはよう。今日学校だろう、海晴」

「……おはよう姉貴。その拳銃しまってくれよ。桜の大門が泣くぞ」

「生憎、私は桜が嫌いなんだよ」

 拳銃を懐に仕舞うと、姉貴はテーブルの上にあるサンドウィッチを頬張った。コーヒーにサンドウィッチ。朝食は既にできてるらしい。

 ベッドから降りて僕もそれを摘む。

 ……ベーコン、レタス、トマト。コンビニのサンドウィッチみたいな作りだが、味は上々。しかしこれだけ材料を使ってるとなると、今日は帰るまでに買い物をしなければならない。特売の日だし。

 そう言えば、浜野精肉店が本日特売。後は花村マーケットで野菜類。今日は豚肉の野菜炒めなんかいいかもなー……

 姉貴はコーヒーにスティックシュガーを八本ほどぶち込んだあと、かき混ぜるのもそこそこに一気に飲み干した。いつもの光景。

「そんなに砂糖入れるならコーヒーやめりゃ良いのに」

「朝はコーヒー。習慣なんだから仕方ないだろう……生意気にブラックなんぞ飲みおって」

 ブラックの何が悪い。

 カップをテーブルに置くと、姉貴はコートを着込んだ。外は寒いのか、ずいぶん厚手だ。

「仕事?」

「ほら、先週まで騒がれてた失踪事件あったろ。あれ、また出たんだ」

「……あー……」

 言われて思い出した。そう言えば、ウチのクラスでも失踪者が出たはずだ。羽織ケイスケ、授業をよくバックレてた男子生徒。僕と羽織が会話をしたのがつい最近からのことなので、詳しくは知らない。

 僕からみると、自由なやつ、ってイメージの男子。

「でもさ。居なくなるでイコール失踪とか、騒ぎすぎじゃないかな。普通こんなに騒がないって」

 苦いブラックを啜りながら聞いて見る。

 ……この街は、こう言う事件があまり珍しくない頻度で起こる。人が居なくなったり、死体で見つかったり。しかしそれを差し引いてもこの街の反応は“過剰”なのだ。

 若者が居なくなるなら、普通警察は“失踪”よりも“家出”を疑うものだ。

 と、どっかの漫画で見た気がする。

「だから、前から言ってるだろう」

 コートを翻して、姉貴は振り向かずに一言。

「この街は普通じゃ無いって」

 相変わらずミステリアスな言葉を残して玄関の扉が閉まった。これで後三日は帰ってこない。

 コーヒーを飲み干す。まだ時間に余裕があった。テレビをつけて適当に聞き流し、学校に行く準備を始める。そして時間になり、テレビを消してからふと、気付いた。

 この街の反応は過剰だ――しかしそれと同じぐらいに、その事件が“当たり前”に思えている、と。



 学校に来ると、真っ先に駆け寄ってくる生徒が居た。黒いロング。確かつい最近まで彼女の傍に居た人間はパッと見大和美人と称していた。

 彼女の名前は姫月菖蒲。にこにことこっちによって来る。

 姉貴の従妹。行方不明になった羽織慶介と交流があった、と本人から聞いている。もちろん、姉貴の部屋で寝泊りしてる僕が知らない人間じゃ無い。いや、もしかしたら姉貴よりも知っているかも――それは無いか。

 思えば、姉貴と菖蒲、そして僕と、三人でまともに顔を付き合わせたことは無い。

 ふと気付く。菖蒲のネームプレートが無い。

「名札、どうしたんだ?」


「ん、ちょっと朝にね。それより――」

 フッと、笑みを浮かべて菖蒲は口を開いた。

「海晴君。ちょっと良い? 話、あるんだけど」

 とても穏やかな笑顔。

 こっちの表情が強張るほどに――完璧に作られた笑顔。

 逆らえない事は、恐らく天地ができるよりも先に決まっている事。言い聞かせながら僕は菖蒲について行く。非常階段を昇って、誰もいない屋上へ。

 寒空の下、見上げても灰色の雲しか見えない。

 でも黒い髪をなびかせるその姿は、絵になっていると思った。

 例え彼女が。

「見てくれよ、俺が仕留めたんだ」


 破綻した人間であったとしても。


「どうした海晴? お前も嬉しくて声が出ないとか――んなわけないよなぁ?」

 その笑みは涎を垂らす肉食獣のそれに似ている。先ほどまで同じ顔であんな表情を作ってたとは、とても思えない。果たしてどっちがホンモノの彼女? なんて自己問答は遥か昔に諦めた。

 彼女の言う獲物、と言うのはウサギとか生易しいものじゃ無い。

「ああ? そっか、メガネ無いと見えねぇのか」

「そうだけど――僕はあんまり見たくない。アヤメが機嫌が良い時に限って、“それ”が見れたモンじゃ無いから」

 アヤメは少しだけ残念そうな表情をして、空気を蹴った。

 しかし僕は知っている。あそこには何かが“居る”と言うことを。そしてそれはアヤメに倒された。原形を留めている何てことは、彼女に限って有り得ない。

 それが人からかけ離れていれば、かけ離れているほど、それは酷いものになる。

「はぁ、久々の大物……しかもこの状態で生かすのも大変なのによ」

 詰まらなそうに呟いて、アヤメは何かを踏み潰した。

「今日のは土蜘蛛の成体だった。サイズ的にはまだボスレベルじゃないから物足りなかったけど」

「土蜘蛛、って……」

 見なくて良かった。

「と言うか、ワザワザ死体残さないでよ。怖いから」

「大丈夫だって。死体残す時はちゃんともう動けない事確認してるから」

 そういう問題じゃ無いって。

 何か文句を言ってやろうと思ったが、アヤメは僕の脇を通り過ぎて、非常階段を降り始めた。僕が見なかったことで機嫌を損ねてしまったのだろうか。

 ……妙な所で子供っぽい。

 そう思っていたら、チャイムが鳴った。

「――そういう事は言ってくれよ?!」

 結局、授業には遅れた。




 珍しく、今日は雪が降りそうだ。

 あの時と少しだけ似ている。




 ……雪か。

「さむっ……どうするかな、傘、忘れた」

 無くてもいいけど、この季節にあんなものを体に浴びるのは健康上宜しくない。あの調子だから姉貴に迎えを頼むわけにもいかないし、知り合いで同じ方向に帰る奴は居ない。

 それに加えて、確かマフラーはこの前から誰かに貸したままだ。誰に貸したんだっけ。まぁ無いものを考えても仕方ないけど。

 どうしたものか、と決めあぐねていると。

「ね、時枷君」

 声を掛けてきたのはクラスメイトの女子だった。

 名前は確か、浜野さんだったか。おかっぱ頭で、少し暗い感じの女の子。……と言うわけでもないか、この前見た笑顔は中々のものだったし。

 はて、彼女とは交流があまり無かったものだから、反応に困る。

「傘……忘れたの?」

「ああ。もしかして独り言聞こえてた? 恥ずかしいな……」

「ご、ごめん。聞くつもりじゃ」

「いいよ、それでそれがどうかした?」

 尋ねると浜野さんは俯いてしまった。少し頬に差す朱色。ああ、結構肌の色も白いんだ。

「か、傘、一緒に入らない? 時枷君――家の方向、同じだよね? 住宅地。嫌ならいいけど……」

「ん……」

 そう言えば、登下校の時にたまに浜野さんは見かけている気がする。特に気に掛けていなかったので思い出すのに時間がかかった。浜野さんのほうは見ていたのだろうか。

 正直悪い気はしなかった。

 と言うか、今ならば手放しに喜ぶべき状況だろう。

「ありがと。でも迷惑じゃ無いかな」

「ぜ、全然!」

 人と話しなれていないのか、微妙に落ち着かない口調の浜野さん。

「この前の、お礼も兼ねて……」

「お礼……」

 少し疑問に思ったけど特に言う必要もないだろう。席を立つ。あまり長話して雪が強くなってしまったら傘に入れてもらうことも難しくなる。

「じゃ、準備するから。先に校門で待ってて」

 浜野さんは頷くとパタパタと言ってしまった。あれであれで貴重な人種なんだろうな、と思いながら予習する科目などの教科書を適当にカバンの中に詰めた。

 ポケットから紐を通した銀の指輪を取り出し、首に掛ける。あとはメガネケースをポケットに詰めて準備完了。少し急ぎ足で校門の方まで向かった。下駄箱から校門までの僅かな距離だが、それだけでも痛いほど寒い。

「待った?」

 聞くと、浜野さんは相変わらず白い肌を朱色に染めて首を横に振った。

 朝があれだったからこういう女の子の相手をすると癒される。姉貴に、アヤメ。本当にまともな人間がいない。なんて、言ったらどっちにも本気で殺されそうだから怖い。

「それじゃ、行こうか」

 雪は、まだ降り注いでいる。

「……うん」

 浜野さんは、綺麗な黒い瞳で僕を見上げた。





 ――暗転。





 見上げれば太陽の見えない、灰色。見上げる余裕があるぐらい、こいつは物足りなかった。鋭く尖った相手の足を躱し、その足目掛けて刀を振り下ろす。

 硬質な音がするが、刃をそのままねじ込む。ぶちぶちといい音を立てて土色の足が落ちた。

「ひ、ギィィィィ!?」

 そいつは情けない悲鳴を上げて仰け反った。

 その姿は奇妙だ。下半身は土色の蜘蛛。そして上半身は――裸の少年。確か、この学校の生徒だったか。あまり特徴がある顔では無いので、覚えていない。

 ……異形、『土蜘蛛』と呼ばれるそいつは、興が冷める程、弱かった。

「あーあ」

 足による突きを切払いで、一本の足を丁寧に二本に増やしてあげた。悲鳴。

「つまんねぇ」

 右の手甲に意識を集中させる。火・磔・投擲・飛来・具現・カグツチ。

「五行――火遁、火産霊ノ一刺」

 錆色の刀身が炎を纏う。手を離すと、それは真っ直ぐに少年の“ど真中”を射抜き、火炙りにした。この世の終わりと言わんばかりの絶叫が灰色の空へと溶けて行く。

 口元を押さえる。

 その少年の、惨たらしい姿を見て、せり上がって来るモノを抑え切れなくなる。


 ――やべぇ。メチャクチャ楽しい。


 堪えきれず、哄笑した。

 早朝とは言え学校の屋上、誰かに見られてるかもしれないが……どうしても抑え切れない。だって、どうしょうもなくその姿を見てると笑いが止まらない、面白い。――楽しい。

 さっきまでイラついてた土蜘蛛の弱さとか、どうでもよくなった。

 今は土蜘蛛が火達磨になるその様が可笑しくて仕方が無い。

「は――あはははははははっ! ……く、は、あぁっはっはっは!」

 そうだ、こう言うのはどうだ?

「く、くく……良い事思い付いた。異形、お前の体。綺麗に整えて鑑賞用にコーディネイトしてやるよ」

 火は消え、もう立ち上がることもできない土蜘蛛の胴体から刀を引き抜く。炭から抜いたようなものなので、傷口の周りがボロボロと崩れ落ちた。

「そうだな――完成したら、海晴に見せてやろうか」

 アイツはきっと見ないだろうけど、からかうネタとしては十分すぎる。

 土蜘蛛を眠らせてから、ふと気付いた。先ほどの攻撃で、名札が飛ばされたらしい。屋上の端のほうにポツンと落ちている。歩み寄って、それを拾い上げる。

『姫月 菖蒲』

 ……これは私の名前。俺の名前じゃ無い。

 そんな事を考えていると、さっきまでの興奮が徐々に冷めて来た。首を振って、ポケットの中に名札を突っ込む。

 冷めたから。もっと楽しく仕立てないと気が済まない。

 また、自然と笑みが零れた。

 それが朝の出来事。





 毎度のことながらアイツは最高だ。

 狩りの風景を思い出して、次に海晴の反応を思い出して、そんな事を思った。

 やはり海晴は柚子姉とは違って、からかった時の反応が面白いし、楽しい。あの冷血女は、ああ言うのを見せると、一言で片付けてしまうから。“この異常者が”、ってな感じで。

 自分が壊れてることは誰かに指摘されるよりも前に自分で理解しているつもりだ。

 駆け抜ける衝動を抑えることはできない。

「……あ、」

 外にちらほらと白いものが見えた。雪。

 どうりで、寒いはずだ。この教室には暖房なんて高尚なものは無い。生徒達はマフラーや手袋をして教室を出て行く。でもそんなものは目に入らなかった。

 何よりも目を奪ったのは、校門に向かう海晴の姿。

 相々傘なんて、青春みたいなことをしている海晴と、このクラスの女子。

「へぇ」

 呟いてから、辺りを見回す。いつもと違う声音に気付いた人間は居なかった。視線を校門に移す。程なくしてその二人の後姿は見えなくなった。

 道具を持って帰らなくてはならない。

 荷物を纏めて立ち上がり、非常階段から屋上へ向かう。屋上には土蜘蛛との戦いの跡なんて残っていなかった。残骸も消した。朝のことなんてまるで無かったかのようだ。

 しかし俺はもう終わったことに興味は無い。結界で隠していた刀と、手甲を手に取る。

 笑みが零れた。

 今晩――遅くても次の朝日が昇るまでに、必要になる。

「海晴……やっぱり、お前は最高だよ」

 見上げると、灰色の空から雪が舞い降りてくる。それは肌にぶつかって、熱を奪って消えていった。心地よい冷気。火照っていく体をいい具合に冷やしてくれる。

 さぁ、行こう。

 哄笑。駆け抜ける衝動。

 ――今夜は、狩りだ。






 寒い。

 寒い。

 寒い。

 寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒いサムイサムイサムイ……

 体が凍える。

 このままでは死んでしまう。

 死にたくない。

 死にたくない。

 温もりが欲しい。

 暖かさが欲しい。

 だれか。

 だれか。

 私の体を温めて。

 あなたの温もりをください。

 あなたの暖かさをください。

 あなたの全てを私に、





「……ん、なんだ、ここ……」

 体を起こそうとして、両腕が縛られていることに気付く。乱暴に縛られているのか、手首から先の感覚がおかしくなって来ていた。加えて、制服の上着も無い。

 視界に入るのは……肉。肉? テレビでたまに見る、ぶら下げられた肉だ。昔見たホラー映画を思い出して、ゾッと背筋が凍った。

「――ぁ。なんだ、ただの肉か」

 部屋の中は薄暗いので、一瞬それが人間の肉に思えてしまった。まぁそんな事はない、まともな動物の肉だ。

「よい、……しょ。んー……だめか」

 どうやら腕を縛っているロープは背後のパイプのようなものに巻きつけられているらしく、金具が引っかかって立つ事ができないようになっているらしい。

 監禁、か。

 常人としてここは驚くような場面かもしれないが、冷静になれた。アヤメの奇行の賜物か――はたまたやけに寒いこの部屋のせいか。部屋と言うよりも、肉なんか見る限り冷蔵庫っぽいけど。

 冷蔵庫……にしても、ちゃんとしたお店にあるような冷蔵庫だ。広いし。それとやはり少し生臭い。

「さて、と――なんで僕はこんな所に居るんだっけ?」

 薄暗い冷蔵庫の中、やっと本題の疑問が浮かんできた。寝起きだとやはり思考が回らないみたいだ。頭を振ってから、自分の身に降りかかったこの状況を考える。

 今日はこの街では珍しい雪の日だった。傘を忘れ、浜野さんの傘に入れてもらって。それから……

「そう言えば、肉屋のシャッターが閉まってたんだよなぁ」

 それから、浜野さんが突然震えだして……で、そこからの意識が途絶えた、と。

 浜野さん、大丈夫かな。ぼんやりと考えながら、身震いする。これからの恐怖とかそういう先の長い話じゃなくて、今寒いという現状。寒いのはあんまり得意じゃ無い。

 せめて上着があれば――や、あったとしてもこんな所じゃ同じか。差はあれど、寒い場所には変わりない。

 よりによって雪の降る日に。かと思ったが、冷蔵庫なら夏でも寒いはずか。

 ……

 寒い、なぁ。

 ぼんやりと天井を見上げる。何だかんだで至った結論が、意識を取り戻すんじゃなかった、と言うことだった。生臭さには慣れたが、やはり寒さは無視できない。

 凍死すると眠くなるだっけ? でも突き刺さるような寒さはそれを許さない。

「まさかこのまま放置とか……うわぁ、冗談キツイ」

 異常な状況には耐性があるので、減らず口がまだ叩ける。アヤメと姉貴に感謝――はしたくないな。

 先ほどから何度か身をよじって縛っている物が取れないか試してみたが、きつく縛ってるみたいだし、やっぱりつっかえて立ち上がることができない。動けない。せめて浜野さんの無事ぐらい確かめたいものだけど。

 何度か堂々巡りする思考の中、ドアノブを回すような音が聞こえた。

 咄嗟に身構え――ようと思ったが体が動かないので音の方向を睨む。白い人影が覚束無い足取りでこちらに向かってくる。その体躯は小柄。と言うかそれは、浜野さんだ。

 彼女は、僕の前まで来ると、そのまま立ち尽くした。

 死人の纏うような白装束を身に付け、彼女は息荒く、寒そうに震えている。冷蔵庫の音に混じって、カチカチと歯がぶつかり合うような音も聞こえる。

「浜野さん――大丈夫?」

 問には答えてくれなかった。

 糸が切れたように、その場に倒れてしまう。

「浜野さん? 浜野さん! オイって――大丈夫?!」

 思わず大声を出してしまった。肩が上下しているところを見る限り、生きてはいるようだが……かなり辛そうだ。体調が優れないとか、そんなレベルじゃ無い。

 まるで――末期患者のよう。

 背中に氷を流し込まれたような怖気。

 目の前で誰かがシノウトシテイル。

 ウゴカナクナル。

「――ッ、ハァ。……ハァ……」

 我に返った。浜野さんは床に手をついて、苦しそうに上体を起こした。しかし下を向いたまま。息はまだ荒い。

「苦しいの? 今、――」

「……とき、かせくん」

 今度は違う意味で、ゾッとした。顔を上げた浜野さんの、朱の差した白い頬。震える瑞々しい唇。潤んだ瞳。乱れた服から覗く頬と同じ白い肌。完成された人形のような――美しさ。

 声を失う。

 さっきまで隣を歩いていた彼女とは違う、危ういほどの妖艶さ。

「ねぇ……寒いの。時枷君」

 擦り寄ってくる。体を密着させて、冷たい吐息が僕の肌を舐める。これほどまでに朱が差しているのに、吐く息も、密着する肌も冷たい。いい匂いがする。頭が、ぼうっとする。

 ボタンが外される、冷たい外気に、上半身が晒される。

 でも寒さはもう感じない。

「暖めて……」

 首筋を、冷たい舌が這う。ゾクゾクと自分のものでない何かが湧き出てくる。

「時枷君――あなたの全てを、」


 ――×××。


「この私に、頂戴?」

 赤く、甘い舌が口の中に入ってきて、僕の意識はそこで途絶えた。





「コーヒーを。ああ、ミルクは要らない。砂糖をたっぷり持ってきてくれ」

「じゃあ私はこの……ストロベリーパフェで」

 注文を済ませると、ヒラヒラした制服を着た女性は去って行った。目の前に座ってる柚子姉は、不機嫌そうに腕を組んでいる。怖い顔だ。なるほどこれだったら容疑者も気迫に負けて口を割るだろう。

 なんてことを考えながらお冷を飲む。

 しばらく黙っていた柚子姉が口を開いた。

「――で、仕事中の私をメール一通で呼び出すぐらいだ。それなりの用事なんだろうな?」

 威圧。

 ……どうにもこうにも、柚子姉だけは苦手意識が抜け切らない。

「そんなに怒んないでよ。メールでも書いたとおり、失踪事件に関する調査協力なんだから」

「ふん。ならメールで全部伝えればよかったものを」

「あー」

 その発想は無かったな。メール打つの苦手だし。

「それに私の前で“その”口調にする必要は無いぞ? 別に無理はするな」

「いや、人目あるじゃん」

 基本あの口調にするのは狩りを愉しむ時と、柚子姉や海晴と二人っきりで会話するときだけだ。そう言えば三人で話したことはあまり無い。基本すれ違ってるからな。

 と、無駄話をしているとコーヒーとパフェが運ばれてきた。

 話を中断してパフェを食べ始める。

 柚子姉は相変わらず、砂糖をぶち込んだ後、混ぜずに一気に飲み干していた。美味いのだろうか。

「――で、あれはどう言う事だ。こっちの秘匿情報まで、どこで拾った? 被害者の死因まで」

 キッと睨まれる。なるほど。あれはどうやら正解だったみたいだ。確証は無かったので、まさか一発でビンゴするとは思わなかった。と、言うのは謙遜だ。

 詰まる所、確証はあった。

「まず第一に……終わらせた事件が起こるなんて、おかしいでしょ?」

 甘いクリームを舌の上で転がしながら、苦々しい顔をする柚子姉の顔を眺める。

 美人なんだからもう少し穏やかな顔をすれば男から引く手数多だろうに――そう思いながら、イチゴを口に運ぶ。これだったら海晴の苦労も想像に難くない。そして苦労する海晴の姿を想像するのは楽しかった。

 パフェを食べ終える。柚子姉は難しい顔をして腕を組んでいた。

「犯人に心当たりは?」

「心当たりも何も――ついさっき、海晴を攫ってったよ」

 空気が変わった。

 柚子姉はゾッとするほど凶悪な瞳で俺を睨んでいた。

 ここが店内とか、人の居ない所だったら確実に柚子姉は拳銃を抜き、俺は刀を使って応戦しただろう。そういう点で、今この状況は少し残念でもあった。

 一瞬変わった空気は消え去り、落ち着き払った感じで柚子姉はコーヒーを追加注文した。

「じゃあ、次の質問だ。そいつは無形か? それとも有形か?」

「間違いなく後者。当てはまるモノは天気から考えても一つしかないでしょ」

 コーヒーがテーブルに置かれる。

 柚子姉は、ゆらゆらと揺れる湯気を眺めていた。

「――なるほど」

 そのままコーヒーの湯気から視線を外し、外に降り注ぐ白いものに目をやる。

「桶屋にも話を通した。いつもと同じように人払いと情報操作、よろしく」

 笑顔を作って、席を立った。

 そのまま柚子姉に背を向けて歩き出す。

「……っとに、この桜は飾りだな」

 その呟きから、背後にいる柚子姉は、想像できないぐらいにイラついてると言う事が分かった。

 目指すは浜野精肉店。





 ――瞼が重くて、鬱陶しい。

 目を開けていたいのに。口内で蠢く舌の感触を楽しんでいたいのに、眠気が襲ってくる。

「……ん、あむ、……ちゅ……」

 扇情的な声。口の中で蠢く度に、それは湧き上がる何かを吸い取っていく。芯が痺れて、もうまともにできない思考の中でも、一つのことだけは鮮明に分かった。

 今、僕は“喰われて”いる。

 力が抜けてきた。瞼も、もう僕の力じゃ重くて上がらない。

 誰か上げてくれよ。

 眠いんだ。

 もっとこの官能的な悦楽を楽しんでいたいんだ。

 眠くないのに。

 このままじゃ死んでしまう。

 眠い。

 ……×××。

「ぷは……ふ、ふふ……暖かい」

 唇を離したダレカが、唾液の線を引きながら微笑んだ。ダレダッケ? 知ってるような気がする、ダレダッケ?

 さっきまで感じていた寒さは気にならなくなった。もう寒さも感じない。だけど暖かくなったわけじゃ無いことはぼんやりとした頭の中でも至った。

 自分がゼロに近付いてるだけのこと。

「じゃぁ、最後のヒトカケラまで、私に頂戴?」

 その声音は甘い。ダレカじゃないみたい。ダレカ? あれ、僕はこのダレカの事を知ってたっけ?

 冷たい唇が迫る。

 でも、それが僕に触れることは無かった。

 永遠に。


「五行――火遁、炎撫」


 真紅がダレカを舐め取るように焼き払った。ゼロになる寸前の僕を、十分すぎる熱が撫でる。

 吊り下げてあった肉は香ばしい炭の匂いを醸す。扉はいつの間にか開いていた。そこに長い髪をなびかせ、右に手甲を嵌め、左に刀と言う異様な出で立ちをした少女が立っている。

 しかしそれは、少女と言うよりも性質の悪い化物だ。

「お楽しみの所悪いけどよ、観客へのサービスゼロ。俺が楽しくないからこっちから先手。文句無いよな?」

 意味不明なことを堂々と宣言しながら、一歩踏み出して、

「さぁ、楽しい狩りの時間だ」


 狩猟者は嗤う。


 合図は無かった、アヤメの居た場所が一瞬で白く凍った。

 ゆらりと、白い影が動く。肩を震わせて――寒そうに――浜野さんが立ち上がる。

 おかっぱ頭に白い頬。何一つ校門から出たときと変わらないのに。ぼんやりとした頭はそれが同じでないと理解できた。あれはもう、アヤメの側だ。

 悲しさよりも、力が抜けた。

「おいおい、寝るなよ海晴」

 楽しそうな声は健在。浜野さんの攻撃を躱したアヤメは錆色の刀を構える。峰を返すなんて事はしない。アヤメはいつも戦う時は最初から殺しにかかる。

 浜野さんは、きっと。


「――異形の解体ショーだ。生で見れるなんてラッキーだぜ?」


 宣言が終わるより先に、白い息吹が空間を撫ぜた。白い息吹の通った後には白く凍った道。それを横っ飛びで回避したアヤメは笑いながら、錆色の切っ先を向ける。

 そしてその瞬間、アヤメの姿が消え、浜野さんの体が右肩から左足まで裂けた。

「ま……相手としては拍子抜けだが」

 赤が噴出した。僕から奪った熱も、元からあった熱も――アヤメは根こそぎ壊していく。

 制服の左を浜野さんの血に染めてアヤメは第二撃を構える。あれはきっと必殺だ。あれは確実に浜野さんの首を飛ばす。そう思った。

 しかしアヤメは動かなかった。

 アヤメの左半身が白い。――凍っている。

「私の熱を、返してよ……」

 静かに呟く浜野さん。アヤメは舌打ちをして、初めて防御に徹した。

 掌から撃ち出された小さな吹雪に、背中を壁を叩き付ける。アヤメは動かなくなった左腕から刀を取り落とした。金属が落ちた音が信じられないぐらいに耳に残る。

 アヤメは凍りついた左腕を手甲を嵌めた右手で押さえ、浜野さんは流れ出る血で床を凍りつかせながら、肩で息をして立っている。お互いが死に掛け。どちらも危険な立場に立たされている。


 だというのに、二人は笑っていた。

「ねぇ、返して?」

 壊れたように浜野さんは小首を傾げ、

「久々に楽しめそうじゃねぇか……!」

 歓喜に震えてアヤメは呟く。

 ゼロから段々元に戻ってきて、寒さが舞い戻ってきた。そう言えば上半身裸なんだっけ? 寒くて当然だ。先ほどまでの眠気は無くなって、肌が痛い。

 しかも……視界の両端に居るのは互いに、真性の“化物”だ。逃げたい。

「海晴、動くなよ」

 アヤメがこっちの心情を察したか、それとも、本当に心配してくれて……なわけないか。アヤメは動かなくなった左腕から右手を離し、顔を覆った。

「今メッチャ興奮してる――ヘタこいたら、お前も殺しちまいそうだ」

 ゾッとすることを口にして、アヤメは刀を右手で拾い上げた。

 白い息吹が襲い掛かる。その攻撃を、アヤメは避けずに切り払った。錆色の刀身が白くコーティングされる。が、彼女自身は無傷。そしてそのまま、刀を捨てて駆け出した。

 浜野さんは両腕を広げて透き通った杭を幾つも放った。

「雪の次は氷柱か」

 アヤメは僕の目の前で急に立ち止まると、その杭――氷柱を、こともあろうに、空中で一本掴んで見せた。しかも他のは全て躱して。目にも止まらぬ早業。

 にやりと笑うと、それをノーモーションで投げ返す。それは空気を震わせ、浜野さんの肩口を射抜いた。

 小さな悲鳴に歓喜の声、アヤメは駆け出す。

 そして浜野さんの懐に潜り込み、手甲を鳩尾に打ち込んだ。ミシ、と軋む音がして、浜野さんが体をくの字に曲げる。

「五行――金遁、鉄槌」

 轟、と音がしたかと思ったら、浜野さんの体がそのまま吹き飛び、反動でアヤメが転がった。右腕の手甲は無い。

 手甲は壁際で跳ねて、鈍い金属音を立てて転がった。

 アヤメのその攻撃にはただただ唖然とするしかない。まるで古いアニメのロケットパンチだ。しかしあの距離での全力の攻撃、浜野さんは無事なはずがない。

 しかし、白い影はゆらゆらと立ち上がった。

 無傷ではなく、ボロボロ。

「寒いの、……ねぇ。私は寒いだけなの……」

 震える声はまるで誘ってるみたいだ。消えかけていたあの快楽が過ぎる。今度は頭を振って呑まれないようにした。白い影を直視する。姿に何ら変わりは無い。

 でも時を重ねるごとに、それは徐々に歪んでいく。

 もう戻らない。

「……浜野、さん」

 その声が自分のものだと理解するのに少しだけ時間を要した。

「だから、暖めてよ、その熱を――」

 髪を振り乱して浜野さんは叫ぶ。アヤメはよろよろと立ち上がり、転がっている刀を拾い上げる。

「私に、頂戴!」

 ――幻想のように美しい雪が世界を呑み込んだ。

 アヤメは、狩猟者は本気の目になった。吼えるような声を上げる。

「そうだ。それでこそ――雪女!」


 空気が凍結していく音を聞いた。


 両者は満身創痍。本気の力のぶつけ合い。殺し合い。

 動かなくなっていく体でアヤメは駆ける。術式は使えない。もう手甲は雪の中だ。動くだけで四肢が凍り付いていく。視界も徐々に消えていく。それでもアヤメは駆け抜けた。

 錆色が浜野さんの左胸を貫いた。

 白に埋め尽くされている。幻想の白き雪は、未だ健在。

 僕に背を向けたアヤメの向こう側、浜野さんがにやりと笑った。でも、


 ――白雪が、悪魔のような炎に呑まれた。


「あ、ぁぁぁぁああアア!」


 絹を裂くような悲鳴。雪に塗れたアヤメが嗤ったのが、背中越しで分かった。突き刺さった刀を回転させて、アヤメはそのまま肩まで抉り裂いた。

 凍てつく血を浴びるアヤメは哄笑する。

 白い影が崩れ落ちる様を見て、僕の意識も落ちた。






「――上半身に凍傷、及び、体力の極限消耗……容態を聞いた時は本当に驚いたぞ」

 とてつもなく不機嫌な姉貴。ベッドの上で辛うじて上体を起こす僕。なんだ、いつかの朝みたいに拳銃を突きつけられたら絶対避けられないなぁ。なんて……笑えない。今度は本当に風穴が開く。

 曖昧に笑って目線を逸らした。

 外は雪が降っている。あれから丸一日眠り続け、目が覚めた頃には雪が薄く積もっていた。この調子だとまだ積もるかもしれない。

「浜野……深雪についてだが」

 珍しく歯切れ悪く姉貴が言った。

「機関があの精肉店ごと処理。彼らは急な理由で引っ越した、と言う事になった」

 浜野精肉店――あの浜野さんの実家だったのか。あまり関係ないけど、そんな事をぼんやりと考えた。雪を眺める。

 ふっと、あの子の顔が頭に浮かんだ。

「そう気に病むな。浜野深雪は“汚染”され、“異形”となった。お前もあの子も――ただ運が悪かっただけだ。誰が悪かったとかそう言うのは考えるんじゃない」

 人の心でも読めるのか、姉貴。そんな事を考えると、何故か可笑しくなって自然と笑えた。これじゃあアヤメと変わりない。僕もどこか壊れている。ずっとずっと前から。

「異形の名は雪女。雪を操り、人の精気を喰らう。恐らく完全な発症のキーになったのはこの雪だ。雪は、その種に汚染された人間の心を狂わせる」

 狂わせる。

 彼女は狂わされた。

 きっと、ずっとあの白雪に抱かれる夢を見ていたんだ。

 幻想の寒さに震えながら。

「姉貴……浜野さんのこと、だけどさ」

 少しだけ思い出した、彼女のこと。

「少し前に、かなり寒い日があったでしょ? その時寒そうに震えてたからさ、浜野さんに、僕のマフラー、貸したんだ。浜野さんって寒がりなんだってさ」

 きっと辛かっただろう。きっと寒かっただろう。

 リフレインする。狂わされた彼女の、本音の言葉。

『ねぇ……寒いの』

 姉貴は静かに雪を眺めていた。

「浜野深雪は、両親と、これまでに複数の人間を殺していた。でもまだ“汚染”の段階だったんだ」

 訥々と語る。

「これだろ、お前のマフラー」

 ベッドの上に、深緑のマフラーが置かれる。思い出した一つのパズル。あの子の言ってたお礼の意味。

 思い出せなかった一つ。

「もし、僕が気付けてたなら。あのメガネで、彼女を見てたなら……」

「イフは嫌いだ、って。何度言ったら覚える」

 僕の言葉を遮って姉貴は立ち上がった。

「あのメガネは確かに異形を見ることができる。だがあれは身を守るための道具だ。鑑定の道具じゃ無い」

 姉貴の言葉は、相変わらず雪よりも冷たかった。

「アヤメから二つ言付かった事がある。まず一つは、」

 そう言って、なにやらプラスチックの破片を投げつけられた。何だこれ? 溶けてる。

「弁償しろ、だと」

 その破片には文字が書いてあって、辛うじて『姫』とだけ読めた。そしてその裏の面には何やら不思議な文様が刻まれている。理解できない。

 首を傾げていると、姉貴はコートを羽織って僕を見つめていた。

「後一つ。浜野深雪の遺言」



『ありがとう、時枷君。暖かかったよ』



 薄暗い部屋の中で、僕はやっと姉貴が出て行ったことに気がついた。外の雪は止んでいる。

 浜野さんの言葉が――頭にこびりついて離れない。今だって、何かものを考えるのが億劫なぐらい。あの冷蔵庫の中が暖かく感じるぐらいに僕の心の中は冷え切っていた。

 伝えられた遺言は真実なのか、虚実なのか。正常だったのか、異常だったのか。それは分からない。分からないけど、その言葉を聞いた僕の頭は思考を止める。

 何気無しに渡したマフラー。それが彼女を少しの間繋ぎとめていたと考えるのは傲慢だろうか。

 本当に僕に彼女は救えなかったのだろうか。

 僕はアヤメのような狩猟者じゃ無いし、姉貴のような刑事でもない。

 もう少し力があれば。




 後悔はいつだって、全てが終わったあとにやってくる。

 消えていった誰かの影を背負って。


 しばらくあの雪は――忘れられそうに無い。


 END


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