天夜奇想譚

こちら白夜行! 第七話

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作者:えすぺらんさぁ

タイトル:こちら白夜行! 第七話







 まだ明けぬ時間。暗い部屋の中で、二人はただひとつ明るい画面を見つめていた。しばらく眺め、映像が途切れ、部屋に灯りが無くなった時、初めて、一人が口を開く。

「なるほど。では彼女は魔女ではないと」

「ええ」

どこからか溜息が毀れる。不意に電灯が点り、部屋の暗闇が纏めて消える。

「まだ魔女だった方がマシだったわ」

溜息の主、ソロモンが言葉を続ける。

「隠レ蓑の地点で違和感はあったんだけど、七つの魔弾は有り得ない」

「有り得ない、とは?」

「Frelkugel。確かに魔弾ってのはある」

「悪魔と契約して、七発の決して外れることのない弾丸を貰うってヤツですね」

「そう、でも実際それは創作のお話であって、実際に術としての再現なんて不可能って言われてる。あんなのは魔術じゃない」

口調を荒げ、不満をあらわにする。

「呪文だけで血液から不可避の弾丸を作り出すなんてそんな都合のいい式、それこそ魔女の存在を冒涜してるようなもんじゃないの」

「なるほど」


魔女とは、文字通りに魔術に特化した異形である。とは言えそれは、魔術・式のルール枠内におけるものであり、決してデタラメなモノではない。ソロモンの言う冒涜とは、その枠から外れたまさにデタラメな魔術――もはや、この表現があたうかどうかも怪しいらしいが――に、そしてそれを扱った明本人に対する苦言であった。

「しかし、あなたでも彼女の正体は掴みかねますか」

しばし、部屋が静まる。そうしてしばらく後

「仕方ないですね」

ため息と微笑混じりに彼女、天城は答えた。

「蔵野明については、『保険』を放って保留。予定より早いですが、計画を実行に移しましょう」






休日となると、蕎麦屋『白杉』の朝は特別早い。饅頭などに使う餡、洋菓子用のクリームなどの仕込みが遅れては、休日の客入りでは致命傷となりえるからだ。店主、そしてバイトである明も例外なく、早くから甘物担当である奥さんの指示に従い、餡とクリームの香りの中、作業にいそしむ。もはや、ここが何の店だったかを問う者はいない。日本、いや世界広しと言えど、こんな光景の見られる蕎麦屋はこの白杉ただ一軒だろう。

「ふぁ……」

思わず大きく口を開き欠伸をすれば、むせ返るような甘い香りが口腔内に容赦なく流れ込む。

「あら、明ちゃん寝不足?」

「あは、ちょっとだけ」

「あんまり無理しないでいいのよ?」

明はたはは、と軽く笑ってごまかす。実際のところ、生活費を稼ぐのに必死で、睡眠時間はやや薄めになっている。昼はバイト、夜は退魔士。今までバイト以外のスケジュールは適当だった明にとって、キッチリと詰まった仕事は意外にも応える。

 手元の仕込が完了したところで、またしても大きな欠伸が毀れる。

「おや」

入り口の向こうから、覗き込むようにする人影に気づき、慌ててその口を手で覆い欠伸を噛み殺す。眼が合う。とりあえず微笑んでごまかせば、相手も微笑み返し、がらりと引き戸を開いた。

 入ってきたのは男。歳は二十代後半、背丈はそこそこ高く百八十前後だろうか、がっちりとした、ではなくどちらかと言うと線の細い体格だ。髪は金色、染めているらしい。革のコートに、ネックレス、ピアス。それぞれは結構な値のするものなのだろうし、見てくれが悪いわけでもないのだが、その男の格好は『どうだチャラいだろう』と言わんばかりの物にも見えた。
 男に次いで、今度は小柄で黒髪の女性が入ってくる。そして、明や奥さんらの方へぺこり、と小さくお辞儀をする。女性の格好は、髪はセミロング、藍色のスーツ姿で、男とは対照的に、簡素すぎるくらいにすら見える。また、小柄のせいかスーツに着られている感がぬぐえない姿だ。


「すみません、まだ仕込み中です。開店は十時半からになっておりま……」

「あらぁ、門ちゃんじゃないの!」

 営業スマイルで応対する明の言葉を遮るように、奥さんが歓喜の声を上げる。

「この人はねぇ、五年位前にここでバイトしてたのよ」

ああ、と明が少し納得する。と同時に何故か男が得意げな顔をする。

「久々にこっちに戻ってきたからね。ところで……」

男はちらりと、クリームの用意をしてる店主に目をやり、首をかしげる。

「ここは蕎麦屋じゃなかったっけ?」

「蕎麦屋よ?」

「蕎麦屋ですよね?」

何がおかしいんだろう、というような表情を向ける奥さんと明に対し、男は諦めたらしくまぁいいか、と少し笑った。店主の心がすこし傷を負ったが、それを感じ取れる者は、ここにはいなかった。

「そっか、いや懐かしいな」

男は少し店内を歩き、最後に、明の目の前で立ち止まった。

「そっか、君が今のバイト君、いや、バイトちゃん」

明はええまぁ、と苦笑いしながら返す。こういうのはやりづらい。自分は相手のことを知らないのに、相手にとってはホームグラウンドにいるようなものなのだ。
 男はしばらく明を眺めやがて何かをたくらんだらしい表情で、ふぅん、と呟いた。

「ねぇ、ちょっとバイトちゃん借りていいかい?」

「へ?」「はぁ?」

 明と奥さんが、同時に気の抜けた声を上げる。

「いや変なことじゃないよ? 話し相手にさ。代わりに今日一日、秘書置いていくからさ」

「若……」

今まで一言も喋らなかった小柄な女性が、苦言を呈すように溜息混じりに言葉をこぼす。

「秘書・若、というと、へぇ社長……門ちゃん、偉くなったねぇ。ボロアパートで食うや食わずやだって言ってた子が」

「やぁまだまだ」

愛想笑いで済ませる男を尻目に、奥さんは明の肩を叩いた。

「息抜きしておいで。ちっとは疲れも取れるだろうからさ」

そして少し声をひそめ、

「それに、これはチャンスだよ? 社長だってよ社長」

耳打ちした。

「はぁ……? よく分からないけど、分かりました」

「よし、交渉成立!」

ポンと背を叩かれる。状況は飲み込めなかったが、とりあえず話し相手になればいいらしいことだけ、明には理解できた。
 ただふたつ、奥さんになにやら頑張って、と応援されたこと、そして秘書らしい小柄な女性に何故か睨まれたことが、少し気にかかった。だがおそらく、明がそれの意味を察することはない。


 男はしばらく、入り口で手を振り見送る奥さんに、手を振り替えしながら歩いた。そして店が見えなくなった頃、その視線を、初めて明に移した。

「さて、バイトちゃん」

「あの、バイトちゃんはちょっと……」

「あれ、嫌? それじゃ……やっぱ明ちゃんかな」

「じゃ、それで」

あははと笑って済ませ数歩後、明はふと歩みを止める。

「あれ?」

そういえば、名前教えてたっけ? 思わず振り返り、男を見る。

「蔵野明、平成十五年に解体された蔵野の家系の生き残りとされている。現在天夜市内外れの三階建廃ビルに居住ね」

「え」

「なになに、月に二~三回公園を利用し身体を洗っているらしい、動物性たんぱく質の確保源は盗み食いにやってきた鼠や犬などの動物、ん、スリーサイズ上から……」

「ストップストップストップ! それ以上はいけない、というより何その紙!」

にやけた表情で、手にした紙―おそらくはカンペのようなものだろう―に目を通す男。それを奪い取ろうとする明をからかう様に、高く上げる。

「まぁこのとおり、お兄さん怪しくないから安心してお茶でも」

「怪しい、てっぺんからつま先まで怪しさしか詰まってない感じがする」

男がにじり寄り、明が離れる。

「そう言わずに。ケーキでも奢るから」

その言葉に、明がピクリと反応する

「……いや、ケーキくらいで釣られると思うのはさすがに失礼じゃない?」

「んじゃ、何なら釣れる?」

「え」

 明は、その質問にしばらく言葉をにごらせた後、やや控えめに呟いた。

「う……牛」


 結果、行き先は焼肉屋となった。






 統括組織。内装は白を基調に整えられ、今は柔らかな朝日が廊下を照らす。そんな中で、葵はぐったりとした背を伸ばし、大きく欠伸ひとつついた。

「あー……さすがにダッルいな」

書類とにらみ合い数時間、いつしか書類の山は消え去ったが、同時に、先日晩からの作業も気づけば昼も過ぎというなんともいえない脱力感。結局、葵は金策のため、二日ほど書類処理に向う羽目になった。さすがに、徹夜での作業は応えるらしく、焦点がぶれる様な感覚が葵を襲っている。
だが、価値はあった。その尊い労働の対価として、三人分、一ヶ月の食事を確保する約束を取り付けたのだ(つまるところは、単なる統括組織食堂食券一か月分三人前というだけだが)。自販機で買った熱い缶コーヒー(微糖)をチビチビと啜り、とりあえず一息つく。一仕事終えた後の一服をゆっくりと味わい、葵の口から思わず溜息がこぼれる。ベンチに腰掛け、少し前かがみに姿勢を移す。意識せずともうつら、うつらと眠気が身をゆする。瞼が重い。

不意に近くの扉が開き、睡魔に閉じられかけた瞳に人影が映る。それが、一瞬葵の眠気を掻き消す。

「ソロモン?」

扉から出てきたソロモンは、キョロキョロと辺りを窺い、挙動不審に、そしてやや足早にその部屋から離れる。何かを焦っている様子で、葵に気づく事もない。


そんな姿に疑問を持ちながら、しばらく葵はソロモンの行動を見守っていたが、彼女の姿が見えなくなると、再びウトウトと身体を睡魔に預ける。
どこからか聞こえてくる、カチカチという時計が秒を刻む音のリズムが心地よく、安眠へといざない――
不意に、ピ、という機械音、そして即後を追うように、耳を劈く轟音と爆風が、眠気ごと葵を吹っ飛ばした。






「状況は?」

桜花の声は不機嫌を露にしたものだった。葵と同じく―もっとも、仕事量は彼よりずっと少ないのだが―デスクワークに珍しくも精を出し、その幸福な達成感と共に惰眠を貪ろうとしている最中だった。その心地よいはずの時間は、鈍く響く轟音とその知らせによって掻き消された。

「資料館、研究室、それに通信室など、細かいモノを含め十五箇所、吹っ飛ばされましたね。ご丁寧に電話線などもやられています」

「んで、どう思うこれ」

「客観的に見るならば、テロですかね」

淡々と、桶屋が答える。桜花はより一層不機嫌を極めたような表情で溜息をついた。桜花にとって、一番面倒となるはずの答えだろう。

「動かせる人員で警戒強化。施設復旧は連絡系統を優先して」






立ち上る煙と油の飛沫、なんとも言えない濃厚な香りが広がる。
ゆっくりと箸を扱い、緊張した面持ちで持ち上げる。その圧力で、鉄板へと肉汁が滴る。慎重に運び、琥珀色のタレへと下ろす。あまり染み過ぎないように引き上げ、口へと――

「ふぉぉ……」

「美味いだろ? 少し値は張るけど、ここは良い肉を使っててね――」

返事がない、ただ恍惚としているようだ。

明はしばらく、焼肉一枚一枚にこの動作を繰り返していた。肉牛もここまでありがたがられれば本望だろうか、とにかく一口一口が仰々しい。

男はその様子を半ば呆れながら眺めた。

「あの、話に移ってもいいかい?」

「ふぉぉ……」

「おおい、戻ってこーい」

結局、明が戻ってくるのはロース肉を一皿、ゆっくり時間をかけて食べ終え、ご飯のお代わりと追加の肉を注文した後だった。



「まぁ話を戻すとして」

男が、わざとらしく咳払いしてみせる。

「蔵野 明、で間違いないんだよね?」

「うん」

「そうか、それなら本題だ」

男は、それまでのややおちゃらけたものから一転、その表情を真剣なものに切り替えた。

「オル――」

「お待たせしました、こちらご飯のお代わりとネギタン塩、上カルビです」

「……あ、はーい」

……ひとまず、肉を焼く作業に入る。ジワーっと油の広がる音が心地よい。

「気を取り直して」

再び、男が神妙な表情を取り戻す。

「あの星見えるかい?」

「え」

窓ガラスの外、男の指し示す方向の空を凝視する。

「か、ろうじて……でもあれって星?」

明には、それが星と呼ぶには遠いものに思えた。光ってはいない。薄昏の赤みがかった空に、黒く、まるでそこだけがぽっかりと切り抜かれているような空間がある。例えるなら真っ黒な月のようなものだろうか。

「オルトレイシス」

「オレイ……」

「違う違う異形だよ。地球周回軌道上にいるんだ」

あまり知られてはいないが、宇宙でも異形が確認されることがある。その代表的なものが、オルトレイシスである。その大きさはほぼ月と等しく、現在確認されている異形の中では最大。夜間のみ、地球上からもその姿を――地上からでは月と同程度の大きさでしか見えず黒いため、難しくはあるが――確認することが出来る。
もっとも、確認『出来る』だけであり、衛星軌道上のそれに干渉する手段はほぼない。また直接的な影響も確認されておらず、それらから特に意識されることもない、『いてもいなくても問題ない』とさえ言われることさえある異形である。

そこまで説明を聞いた地点で、明は首をかしげた。

「えっと、なんだか大きい異形がいることは分かったんだけど……それで?」

「オルトレイシスは今眠ってるんだ」

男が微笑む。しかし、眼差しだけは真剣さを保ったまま、静かに明を見据える。

「今夜――」
しかし

「――待て、何をやってる!」

「え」

「ネギタン塩は裏返さないんだ、ネギが落ちるだろう!? ああほら、これなんかもういい頃合だ、レモンダレのほうにつけて……ほら」

「ふぁぁ……は、歯ごたえがあって……」

「だろ? じゃんじゃん食べようじゃないか。あ、お姉さん、ホルモンとハラミ追加で――」

シリアスは焼肉の前に完敗し、跡形すら残らなかった。




天夜市内、住宅街の外れにある一角、特に大きく区切られた区間に、その屋敷はある。高い敷居に囲まれたそれは、かつての白夜行、蔵野家の屋敷……今、主はなく、ここは統括機関が管理する施設となっている。

「エマージェンシーです」

その旧蔵野屋敷の門扉を守る警備に、天城が告げる。

「統括が何者かにより襲撃を受けました。藤原桜花の命により、しばらくこの屋敷の警備指揮は私天城が受け持ちます。通してください」


こうして天城、そしてソロモンの二人は、難なく屋敷の警備を潜り抜けることに成功する。それどころか、あまりにもあっさりと警備は掌握されてしまった。
門を潜り抜け、警備の人目がなくなったところで、ソロモンが感心したように語り掛ける。

「存外にあっさりといくもの、ね」

「警備と言うのは、所詮は対外敵用ですから。統括に確認も取れませんし」

ふぅん、と呆れ交じりの溜息をこぼす。

暮れかかった空も相まって、人気のない屋敷の気配は重い。枯山水の庭もその姿形こそ殆ど変えないものの、静寂と吹き抜ける冷たい風を持って、招かれざる客人に精一杯の拒絶をしめす。

「変わらないのになぁ」

呟くソロモンは、瞳にどこか郷愁を含んだ、悲しげな瞳で庭を眺めていた。

「進みますよ」

「……はいはい」


やはり火と人の気のないせいか、吹き抜けで風の往来を止めるもののない屋敷は、涼しげを通り越して、身震いを起こすような冷たい空気が漂う。
広い屋敷を進んではしばらく、二人が記憶を頼りにたどり着いたのは、また広い座敷だった。

「ここですね?」

「ええ」

「では、失礼します」

天城は、人のいない上座に向って深々と頭を下げた。

床の間を背にした上座、おそらくは家主が踏ん反り返って構えていたであろう席。数年間、人の手どころか、殆ど人目に触れもしなかったであろうはずのそこは、山水画の掛け軸に、青々とした菖蒲の生け花。枯れた風景の中で、不自然なほどに彩を持つその空間、そしてそれを背後に置く主無き後の上座だけが、凛とした空気を保っていた。

「ここですね確かに」

掛け軸に触れてみれば、何ということはない、その空間だけ、実物ではないまやかし、ただそれだけのことだ。

「光術でのカムフラージュか……確かに、これで上座に居座られてたんじゃ分からないわ」

「さて、この先は分かりますね?」

ソロモンが頷く。しかしその表情は、心なしか力ないものだった。

「では、お願いします。私は――少し用事が出来ました」

「そうみたいね」



ソロモンが床の間を潜り抜けてしばらく、天城は広い座敷の上座の横にちょこんと腰掛け、待った。屋敷の入り口あたりだろうか。そこに魔力の流れを感じ取った。侵入者、そうとって差し支えないだろう。
天城の表情は浮かなかった。彼女はここまで、統括、または桜花に感付かれないよう、やりすぎとも言えるほどにカムフラージュを施したはずだ。たとえ見抜かれるにしても……これは早すぎる。
だとすれば? 彼女が事態を探る中、不意に、座敷の襖が乱暴に開かれた。侵入者は全体的に煤けていて、天城はそれが葵 恵だと判別するのに数秒を要した。

「うちの馬鹿はどこだ? ……なんでお前がここにいる、天城」

「こっちの台詞です。なにやら随分薄汚れていますね」

部屋に飛び込んできた葵を、丸眼鏡の奥から不機嫌そうに睨む。いや、実際彼女は不機嫌を通り越し、この無粋な来訪者に退場願う算段を練っていた。

「現在、統括本部襲撃にともなう桜花直々の指示により、この施設の警備は私に任されています。この状況を見るかぎり、貴方が襲撃の関係者と見て間違いなさそうですが」

「俺はこの屋敷に何があるのかすら知らないって」

葵はここまでの経緯――ソロモンを追いかけてきただけだが――を説明しようかとも思ったが、即座にその考えを引っ込めた。代わりに、ひとつ聞いてみることにした。

「桜花の指示だって言ったな」

「ええ」

「どうやってだ? 直接聞いたにしては早すぎるし、統括からの連絡手段は全部切られたはずだろ」

葵は実際に応援要請のため統括に連絡をとろうとし、失敗している。つまりは連絡手段が無いのは実体験済みである。また、彼が見た、いや巻き込まれたのは通信室の爆発だった。

「今は携帯電話という文明の利器がありますから」

にこやかな、あからさまな作り笑い。天城のそれに余裕はまだあったが、

「アイツの執務室。未だに手書きなんだよ。今時パソコンどころか電子レンジもまともに使えなんだ、桜花のやつ」

その表情から、笑みが消えた。俯き加減に顔を伏せ、葵からジリジリと距離をとり始める。

「だから携帯なんか持ってねぇんだよ」

「そういうところは見ていませんでしたね。それにしてもあなたは……相変わらず邪魔です、ね……!?」


懐に伸ばした手を、氷の拳が打ち払う。うずくまる身の細く白い手から、拳銃が零れ落ちる。すかさず、葵の氷術は彼女を畳へと沈め、縛り付ける。対人専用、裁定者の名は末席といえど伊達ではない。

葵は銃を拾い上げ、彼女の頭へと銃口を突きつけるように構えた。

「どういうつもりで何が目的だ」

「今に分かることですけど」

天城の顔には、再び笑みがあった。それは今までとは別物の、歪んだ表情。ほんの一瞬だが、それは人を外れたモノだった。
バキン、と乾いた音が響く。

「おいおい……人間じゃねぇ」

葵は思わず絶句する。重い氷の拘束を、女性に力技でこじ開けられたのは彼にとって初めてのことだった。凍りついた白衣を脱ぎ捨てゆっくりと立ち上がる。現れた白い肌が、見る見るうちに人のものではない黒色へと姿を変え、その背には異を誇張するような翼が現れた。

「出来れば穏便に済ませたかったんですが」

そして既にその表情、気配は人間を逸した。ニィ、と口元が笑みに歪む。その姿はまさに、悪魔そのものだった。

「しばらく、あなたは私に付き合ってもらいますね?」






「はー……」

牛肉を腹いっぱい食べる。そんな少し時代錯誤な夢を果たした明は、満足げな表情で恍惚と、その達成感を噛み締めていた。

「満足したかな」

「はー……」

「……聞くまでもないか」

向かいの席で〆のバニラアイスをつつく男は、しきりに時計を気にしている。

「そろそろかな」

「う?」

不意に、男が立ち上がる。時計の針は九時。窓の外を覗けばもう暗く、いくらか星の瞬くのが見える。

「え……あれって、何?」

「さっきも見ただろう?」

星。それも瞬くような、小さく見えるものではなく月。まだ頂点へは届いていない半月の丁度向いの方角に、三日月が見えた。三日月と言っても、その形も、色も、本来のそれとは大きく違う。弓なりの弦を上に、下に傾いた、青い三日月。それが、ゆっくりとその面積を広げていく。三日月から半月へ、半月から――

それは不気味な光景だった。だが目を奪われる。重苦しく不快、しかし荘厳で優雅。その場では、明のほかに、その存在に気づいているものは彼女の目の前にいる男の他にはいない。それはあの青ざめた月が、異形であることを、そして目の前で笑う男にそれが『見えている』ことを裏付けている。

「歴史的瞬間だとは思わないかな」

男は得意げに微笑んで見せる。

「これは異形が退魔士に、いや、人間に伝える敵意だ。そして!」

男が、おもむろにビシッと明を指差し

「それに対するのは、ずばり君しかいない!」

大げさに叫ぶ。
明は、自身が高揚していることに気が付いた。しかしそれが、恐怖や危機感ではなく、ましては男の話に対する好奇心でもない、かつてない感覚であることには気づきようがなかった。




「ねぇおかーさん、あの人たち何してるの?」

「こらこら、気にしちゃいけないの」

「……とりあえず行こうか」

「うん……」

とりあえず、場所はわきまえる物だと学んだ二人だった。











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