天夜奇想譚 天夜奇想譚 -狼- Chapter5


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         ※
 遠く、低く鳴り響く汽笛の音が鳴っている。
 薄暗い空間は、海の向こう側から聞こえる音に、小さく壁と屋根を揺らし、上から微かに埃を撒き散らしている。
 不規則に立ち並ぶ錆び付いたコンテナのジャングルの中は、冷房のひとつもなく冬の夜だというのに暖かい。
 静寂を破るように空間の片隅で唸るスチームタービンの発電機の音が、薄暗い空間の中で不気味に鳴り響いているだけだった。
 その空間の中に、人影がひとつある。
 既に表記された字も読めない汚れたコンテナに背中を預け、俯く様に膝を抱える姿は、周囲を寄せ付けない鋭い空気を纏っている。
 端をボロボロにした制服姿の夏輝-なつき-は、既に駆らしてしまった涙を拭いもせずに、只々コンクリートの地面に視線を落としている。
 此処にいろ、と連れてこられたこの場所は、夏輝のよく知る海岸沿いの貨物船の倉庫である。
 その一角に立つこの場所に、自分は決して監禁されている訳ではなかったが、何処にも行くあてのない自分には、此処以外に行く場所がなかった。
 だから、夏輝はもうすでに、街を出歩くか此処で蹲っているかの選択しかない。
 それも、先刻の光景を見てからは、一日中この場所で一人蹲っている時間しかなかった。
 俯く夏輝は、周囲の様子にも気づかず、ただぶつぶつと何かを呟き続けている。
 呪詛、ともとれる言葉はしかし、小さすぎて誰の耳にも正確な言葉を聞き取らせない。
 しかし、此処に集う他の者たちにとっては、夏樹の事などどうでも良かった。
 夏輝からしても、此処に集められた他の者たちなど、自分に気づかない他の誰彼と変わらぬ存在だった。
 皆は、自分の身に宿った力に、ある者は驚き、ある者は喜び、ある者は畏れていた。
 しかし、夏輝はそのどれにも属していなかった。
 夏輝は自分に起きた出来事に恐怖し、絶望し、そして恐れていたからだ。
 誰一人、その力の恐ろしさに気づかない。
 誰一人、存在を知られない事に恐怖をしない。
 周囲は夏輝がおかしいと遠ざけたが、夏輝は自分こそが正しいと信じている。
 だから、居場所がないと戻ってきた此処でも、自分はその磨耗する意思を守るためにこうして周囲を寄せ付けないのだ。
 隣のクラスだった藤代-ふじしろ-にも、決して心を許さなかった。否、彼こそ夏樹が最も嫌う人間だ。
 取り巻きを作った藤代雄二は、倉庫に戻ってくるなり、相手にしない夏輝に自慢げに人を喰らった時の話をした。
 爪が肉を引き裂く感触を。
 牙が肉を食い破る感動を。
 喉が生き血を飲み干す渇望を。
 一言も発しない夏輝に、藤代はさも嬉しそうにその時の興奮を説明する。
 そして、早くお前もこっちへ来い、と最後に言葉を残していく。
「だれが、行くもんか…」
 思い出した藤代の言葉に、擦れる声で夏輝は言葉を吐く。
「――まだ、そんな所にいるのか」
 ふと、何者にも反応しない夏樹がピクリと身体を震わせた。
 顔を上げた先には、一人の青年が夏輝を見下ろしていた。
 銀の長髪で片目を隠した男。
 ラフな服装はしかし、不快感を感じさせない程度にシンプルなもので、僅かに首元から見える肉体は、引き締まった獣のような鋭利さを感じさせる。
 そんな相手に、夏輝は驚きの表情を一変させると、先ほどまで無気力に座り込んでいた身体を起こした。
「この――!!」
 刹那という言葉が通じる速さで、夏輝は男に飛び掛かると細く華奢に見える首筋へとその鋭利な爪を届かせる。
 貫けば確実に即死となる一撃は、しかし、何事もなかったかのように涼しげに夏輝の腕を掴む相手に止められていた。
「言っただろう。お前程度では俺の首は取れはしない」
「ウルサイ!! そんなのやってみなくちゃ分からないじゃない!!」
 夏輝は男から離れると、次の一撃を打ち込もうと、純白の体毛に覆われた腕を振り上げる。
 ――が、その腕に気づくと、夏樹は思い出したようにその身を震わせた。
 それが、まごう事なき自分の腕であることに、恐怖したからだ。
 その獣の腕を抱きかかえるなり、夏輝はその腕を庇うようにしゃがみ込んだ。
「見ないでよ!! アンタなんか、早く何処かいっちゃえ!!」
 叫ぶ夏輝にも、男は感情の色を見せずにただ見下ろしている。
「他の奴らと違って、大人しく此処にいてくれるのは助かるが、早く現実を受け止めろ。いくら拒んだところで現実は変わらない。
 早く他の奴らのように異端として生きるか。その力を受け入れた上で、大人しく協力しろ」
「だれが、あんた達なんかに協力するもんか!! 私は、あんた達とは関係ないじゃない! 早く家に返してよ。この身体を元に戻して、早く、お母さんたちの…」
 その先の事を思い出して、夏輝はまた枯らしたはずの涙を零す。
 男は静かに夏輝の横を過ぎると、言葉を返す事無くその場所を去った。
 不意に、乾いた電子音が鳴る。
 制服のポケットに仕舞いこんでいた、ピンク色の携帯電話。取り出したその携帯電話の液晶には、夕刻に見た彼女の名前が出ていた。

          ※
「戻ったようだな…」
 扉を閉めると、部屋の置くにある椅子に座る男がナッシュを迎え入れた。
「事は済んだのか?」
「――ああ」
 ナッシュは簡潔に答えると、部屋の壁に寄りかかる。腕を組んで視線だけを男の方へ向けるナッシュの貌は、先ほど晴菜がナッシュへ向けていた敵意と然程代わりがない。
 そんなナッシュの様子に、男は鼻で笑うと立ち上がった。
 高価なスーツに身を包んだ、一見40代も後半になろうかという年老いた貌は、しかし、言いようのない薄気味悪さを伴う若さを感じさせる。
 薄い金髪を後ろでまとめた貌は、薄く皺が刻まれていながら、その瞳はギラギラとした力を感じさせ、その視線はナッシュではなく、その奥にある何かを見つめている。
「まあ良い。お前をこの地へ誘い、しなくても良い苦労をしょって逃れた私だが…。ついに復讐という名の劇を開く目処が立ったのだからな」
 男は前にあるテーブルの上から、年代物のワインをグラスに注ぐと、その色を愉しむかのように、紅い液体を眺める。
「私を陥れた教会と、奴らに復讐するために。この極東の地を最初の舞台に選んだのだ。失敗は許されないぞ、ナッシュ…」
「約束は守るんだろうな。今回の件が片付けば、俺とマヤを自由にするというのは…」
「ああ。守ろう…。そのためにも、次の作戦は失敗するな。わざわざあのような屑どもを使ってまで、教会と統括組織の重い腰を動かしたのだ。
 事が済めば、生き残ろうが死のうが、末路は同じだ。せいぜい奴らに楽しい夢を見せてやれ」
 男はグラスに入れたワインを飲み干すと、空になったグラスを地面へと落とす。
 耳障りな音から逃げるように、ナッシュは壁から離れると部屋を後にした。
 遠ざかる足音に耳を澄ましながら、男は愉悦に彩る瞳を元に戻すと、小さく鼻で笑った。
「そうだ。――だれが生き残ろうと、末路は皆同じ。せいぜい夢を求めて舞台の上を迷走するが良い…」

          ◇
「これで仏も10ケタに入りましたね」
 夜の街中――遊楽街と呼ばれる場所の街道裏。
 其処に横たわる死体を前に、気の会う部下が表情を歪めながらそんな言葉を呟いた。
 ここ数日の被害者の数は加速度的に増し、そのどれもが堂々と街中で行われている。
 狙われる被害者は女性に焦点が絞られていき、今回の被害者も歳若い女性のものだ。
 乱暴を受けた後にばっさりと胸元にかけて爪あとを残す傷口は、およそ人の所業とは思えない。
 その傷口を見れば、尾霧-おぎり-の頭からは柚子-ゆず-から聞いた言葉が読みがえってくる。
「狼の仕業――か」
「え、狼? ああ、確かに。狼ならこんな傷を作れるかもしれないですね。でも、この傷跡じゃ人ぐらいの大きさじゃないと無理ですよ」
「じゃあ、狼人間の仕業かもしれんな」
「狼人間って、それ西洋のお化けでしょ。そんなのが日本の街中に出るもんなんですか?」
「馬鹿。お前いま自分でお化けって言っただろうが。お化けなんかいるかよ」
 勿論冗談ですよ、と部下の大鳥-おおとり-は答える。
「でも。じゃあこれ、一体なんの仕業なんですかね」
「さあな。だが、確かに人意外の何かの仕業かもなぁ」
 尾霧は煙草に火をつけると、コートの内側から書類の束を取り出した。
「なんです、それ?」
「家出、失踪等で捜索願いが出されている対象のリストだよ。この被害者もその中に入っている」
「家出娘なんですか?」
「いや。既に一人暮らしだが、何日か前から友人の間から連絡が取れなくなっていたらしい。心配した友人から捜索願いが出されていたらしいが…」
 ぺらぺらとめくる書類の中に、目の前の被害者の顔写真とプロフィールが出てくる。
 近くの店で働く女性で、もう何一も店にも家にも顔を出していなかったらしい。
 ふと、次々とページをめくっていると、一人の一枚の写真に目が止まった。
「あれ、これは近くの高校の女性徒ですか? ――光野夏樹-みつのなつき-ってこれ、この前あった被害者の…」
「行方不明の娘だ。彼女も捜索願いが出ていたんだが…」
 ふと、尾霧は表側に通じる道へと視線を向ける。制服警官たちが通行止めにする通路の入り口には、野次馬が何事かとたむろしている。
 そんな野次馬達も、やっとその場を離れ始めている中、その影が一瞬見えた。
「――せ、先輩!?」
 突然走り出した尾霧に、部下の大鳥が叫ぶ。
 鑑識たちを押し退けて飛び出した尾霧は、書類を投げ捨てるとバリケードを張っていたテープを引き剥がして表へと飛び出す。
 一瞬だが、確かに見た光野夏輝の姿。
 間違いかとも一瞬思考が掠めたが、尾霧は足を止めなかった。
 消えた方へと走り出す尾霧だが、不意に飛び出してきた陰とぶつかった。
「痛ったいなぁ。気をつけろよおっさん!!」
 真冬の格好とは思えない、パーカー姿の少年に、尾霧は体格では勝っているはずなのに吹き飛ばされた。
 城持ちを突くことだけは回避した尾霧だが、既に消えた方向を見れば少女らしい姿は何処にも見当たらない。
「すまない。だが、キミもこんな時間に出歩いてたら駄目だ…」
 思い出したように、ぶつかった相手を呼び止めようとして――しかし、そんな姿は何処にもなかった。
「先輩、どうしたんですか?」
 追いかけてきた大鳥に、尾霧は驚いた表情を隠す事無く向き直る。
「おい、いま俺にぶつかった子供はどこいった?」
「子供――? 先輩、誰かとぶつかったんですか? 珍しいですね」
 大鳥の言葉に、尾霧は狐につままれた様な顔をする。
「気のせい、か?」
 尾霧は、抱えた違和感に思考を麻痺させる。不意に、周囲から視線を感じてあたりを見回す。
 野次馬や通行人たちの中、まるで誰かに監視されているような錯覚。
 誰も彼もが、怪しく見える。
 錯覚、というには何処か異質な空気が、夜の街に広がっていた。
「何か、あるのか――?」
 尾霧の言葉は、ただ人込みの喧騒の中に掻き消えるのみだった。

          ◇
「悪いわね、優希。こんな時に遅くまで付き合わせて」
 学園の校門を出たところで、真紀は伸びをする優希に礼をした。
「ぜんぜん大丈夫だよ。真紀ちゃんも生徒会の仕事大変だよね、みんな早く帰れるのに真紀ちゃんだけ残るんだから」
「まあ、私の場合は迎えがちゃんと来るからそんなに危なくはないけど。生徒会長なんか、まだ作業してるし。家も遠いって聞いてるし」
 そうなんだ、と優希は気のない返事を返す。
「―――」
 二人、無言で日の落ちた道を歩く。
 学園の前の坂を下りていく間。真紀は横を歩く優希を見ていたが、当の本人は気づくこともなく、俯いたまま歩き続けている。
 心此処にあらず、とういう言葉を思い出し、真紀はため息ひとつ――、
「なに、恋でもしたの?」
「――えっ? ほやっ!?」
 やっといつもの驚きを見せた親友に、真紀は苦笑染みた笑みを浮かべる。
「今日は一日中、調子が悪そうだったけど…。何かあったの?」
「い、いや。あのね!? あれはそんなんじゃなくて! というか、別に何かあったわけじゃないし、そもそも名前も住所も知らないしたぶんもう二度と会わないんだろうし。――ちょっと、格好良いかなぁなんて思ったりも…」
 あたふたと顔を真っ赤にして慌てる優希の姿に、真紀は今度こそ困惑した。
 支離滅裂な言葉に何を言いたいのかが分からない真紀だったが、それについて問いを発する前に、優希は突然落ち着きを取り戻すと――、
「夏輝ちゃん。どうしてるのかなって…」
 ああ、そっちか。と真紀は優希を見つめた。
「昨日ね。駅前で夏輝ちゃんを見た気がしたの。気のせいかもって思ったし、実際ちゃんと確かめたわけじゃないの。それに、その後――、えっと、ちょっと驚いたことがあって。それで、そのときのことをしばらく忘れてたの…」
「そう――」
 真紀は簡素な答えを返すと、そういえば――と真紀も夏輝のことを思い出す。
 言われてみれば、自分も何かと雑務や用事に追われて、彼女のことを省みなかったな、と思い出す。
 学園で初めての犠牲者かもしれないと言われているクラスメイト。優希程に親しくはないが、それでも気が強く目立つ彼女とは、そこそこに話をする間柄ではあった。
 元々、優希は人を惹きつける何かがある。
 自分も、最初は優希と親しかったわけではなかった。
 ただ、クラスが同じになってから、他人をあまり寄せ付ける性格ではない忍がやたらと親しくしているのを見つけて、二人の会話に混ざってみたのが始まりだった。
 自分や忍とは違う、何処にでもいる様な女の子。それが真紀の最初の印象である。
 何か特別な才を持ち、忍のように自信を持っている訳でもない。自分の様にしがらみを持った人間特有の影があるわけでもない。
 一言で言えば、同じクラスのクラスメイト。別段下校を共にすることもないだろう相手だった。
 だが、気づけばこうして相手を気遣うぐらいには親しい間柄となっている。
 自分には珍しい事だ、と真紀は今更ながらに思う。
「――私。夏輝ちゃんは友達だって、思ってるんだ」
 突然口を開いた優希に、真紀は意識を外に呼び起こす。
「夏樹ちゃんは小さいときから一緒にいた相手で、何かあれば夏樹ちゃんと一緒にいたの。顔を合わさない日は必ず連絡を取ってたし。声を聞かないだけで何か落ちつかなかった」
「ゆ、優希――?」
 なんだか危ない事を聞いてる気がして、真紀は思わず冷や汗をかく。
「なのに、最近はどうしても夏輝ちゃんの事が考えられないの」
 その言葉に、真紀は動きをとめた。
「なに、他に気になる人でもいるの?」
「そんなんじゃないの。そういうことじゃなくて…」
 要領を得ない話に、真紀は段々とイライラしてきた。元々要点をつまんで話せる相手ではないが、今日のは本人も何が言いたいのか分からないらしい。助言を返したくても、真紀には出来ない相談だ。
「夏輝ちゃんのことを考えると、頭の中に霧が立ち込めるような感じがするの」
「―――」
 真紀は、完全に動きを止めた。
「何も考えられないの。考えちゃいけないというか、夏輝ちゃんて誰なんだろう、とか思ったりするの…」
 真紀の頭に記憶障害、という言葉を思考が駆け巡り、同時にもうひとつの考えが浮かび上がる。
 そうか、と真紀は優希よりも先に優希の苦しみを理解した。
「――疲れてるのよ、優希。今日はゆっくり休みなさい」
「真紀ちゃん?」
「そういう時は、何も考えないでゆっくりやすみなさい。眠った後に大抵考えはまとまるものよ」
 突き放した、と取られてもよい言葉を投げて、真紀は話を打ち切る。
 きょとんとした優希の顔に、もっといいようがあったかもしれないと考えるが、真紀は言った言葉を訂正しようとは思わなかった。
 気づけば交差点に入り、そこ黒塗りの車が静かに止まった。
 運転席のドアが開くと、真紀には見慣れた男の顔が出てくる。
「お疲れ様です、お嬢様」
 落ち着いた声で恭しく礼をする木藤-きどう-に、真紀は手にしていた鞄を持つと、木藤が開けたドアから後部座席へ乗り込む。
「送っていくわ。乗って、優希」
 勤めて普通を装って、真紀は優希に席を空けるが、優希はしばらくそれを見た後、いつもの笑顔で首を横に振った。
「ううん。ここならそんなに遠くないし、大丈夫だよ」
「――そう」
 真紀は優希の家の場所を知っていたが、優希の言葉を素直に聞くことにした。
「――真紀ちゃん!!」
 木藤が静かにドアを閉めようとしたところで、優希が呼び止めた。
 木藤が動きを止めると、半開きのドアから真紀が顔を出す。
「真紀ちゃんの言うとおり、今日はゆっくり休むね。明日になったらきっといい考えが浮かぶと思うから」
 信頼、という言葉が感じられる笑みに、真紀はほっと安心の笑みを浮かべた。
「また明日ね…」
「うん、おやすみなさい」
 今度こそ木藤はドアを閉めると、優希に丁寧な礼をして、運転席へと乗り込んだ。
 音もなくやってきた車は、静かに走り去っていった。

        ※
 走り出す車から外の景色を眺めながら、真紀は頬杖を突く。
 別れ際の優希の貌を思い出して、夏輝は何も言わずに運転する木藤へと声を掛けた。
「――木藤。統括組織に寄って。御爺様にアポイントを…」
 木藤は、はいとだけ答えると車を帰り道から外した。

         ◇
 人気のない道を歩く。
 優希は霞む頭で必死に思考していた。
 分からない、という言葉だけがあせりを生む。
 自分は、どうしてしまったんだろう。
 彼女との思い出を思い出そうとしても、頭に浮かべる映像は霧散していく。
 彼女の声を思い出そうとしても、その音はノイズが走っている。
「やっぱり、真紀ちゃんの言うとおりにしようかな」
 言って、そうしろという言葉が頭を占める。
 ――今は考えるな。休んでしまえば全て元通りだ。一眠りすれば、今度こそ全てを忘れる。
 ふと、制服のポケットに入っているそれに気づいた。
 取り出せば、二つに折られた形状のそれが手の中に納まっていた。
 携帯電話。
「――あ!!」
 思わず開いてボタンを押すと、優希は電話帳を開いて目的の名前を探す。
 どうして、自分は今まで気づかなかったんだろう。
 本当にどうかしている、と優希は自分を叱りつけずにはいられなかった。
 電話帳を下へと走らせる優希は、そしてその名前を見つけた。
 ――光野夏樹-みつのなつき-
 其処に書かれた11個の数字の列を見つけて、優希は通話のボタンを押す。
 耳に当てれば、聞きなれた呼び出しの音。
 数回の繰り返しの後に、ガチャリと向こうから音がした。
「―――優希?」
 刹那。視界の先が晴れた様な気がした。
「夏輝ちゃん!? 夏樹ちゃんなの? いま何処にいるの。私、ずっと心配してたんだよ!!」
 いっぺんにまくし立てる優希に、しかし相手からの返事は帰ってこない。
 優希の思考が、悪い方へとばかり加速していく。
 もしかして、隣に犯人がいるのだろうか。
 もしかしたらまともに話が出来ない状態なのかもしれない。
「――優希」
 もう一度、電話越しから夏輝の声が返ってくる。
「どう…して。アイ――と…」
「ごめん、夏樹ちゃん。よく聞こえないよ?」
 擦れたような夏輝の声に、優希は心配ばかりが募る。
「――いつもの場所に」
 最後に、はっきりとした声で夏樹が告げると、電話はぷつりと切れてしまった。
 無機質な音が返ってくるばかりで、優希は仕方なく電話を切った。
 ――いつもの場所に。
 思い当たる光景が頭に浮かび、優希はすぐさま走り出していた。

          ※
 破砕音が広がった。
 工事中の敷地内に飛び込む影を追って、圧力とも取れる暴風が立てかけてあった鉄材をなぎ倒していく。
 その暴力から逃げるように、強靭な脚力で飛び出すのは、額に滝のような汗を描く少年と、全身を薄汚れた赤い体毛を生やした狼男の姿だ。
 そのうちの一人。少年の方が狼男へと話しかける。
「おい!! こんな時に雄二は何やってるんだよ!! 俺達がピンチだってのによ!」
「今日は別行動だろ。大方、いつもの女漁りじゃないのか?」
「ふざけんなよ!! 何なんだよあいつら。この前の教会と統括を相手にした時にはいなかったじゃないか!!」
 少年は地面に打ち付けられた鉄筋に足をかけると、自分に襲い掛かる暴風から身を離す。
 何処からか飛来する鉄材を、狼男はその筋肉で膨れ上がらせた腕で叩き落とした。
 今日の夜は、取り巻き10人で夜の街を出歩いていた。
 誰にも気づかれることなく往来を大群で移動していた少年達は、突然――自分達を見つめる一人の少女と出くわしたのだ。
「ほら、アンタたち! 何時まで逃げ惑ってるのよ!!」
 そう。こんな聞いてて心惹かれる声音で、少年は声を掛けられたのだ。
「くそっ! なんてしつこいんだ!!」
 ショーカットの黒髪が印象的な笑顔の綺麗な貌に、一瞬でもどきりとした自分が恨めしい。少年はそんな事を思いながら毒気づく。
 壁のないビルの骨組みを足場に、狼男と共に駆け上がる少年は、5階の位置――足場になる場所を見つけて其処に降り立った。
「おい、広瀬――!!」
 そこで体勢を立て直そうと連れの狼男へと振り返ると――ぐしゃり、という音と共に貌に赤黒い液体が飛び散った。
「あれ、逃げるのはお終いなの?」
 其処にいるはずの少年の隣には、頭をつぶした獣の亡骸と、それを踏みつける少女の姿があった。
 色白のその貌には少年と同じ返り血を浴びていたが、あっけに取られる少年の顔とは対照的に、壮絶な笑みを浮かべる少女の相貌は、月光に照らされて芸術的だった。
「ほら、仲間は全部死んだよ。後はアンタだけだ」
「――!! お前ら何モンだよ! 統括の生き残りか!?」
「残念。ウチらはそっちじゃなくて教会側。いくら教会の手があまり伸びていない極東だからって、統括と判断するのは早計過ぎるわよ」
 少年の答えに、ちっちっちと指を振る少女。そんな余裕の姿勢に、少年は湧き出していた恐怖を怒りと屈辱で染め上げる。
「この、ふざけやがってぇ!!」
 一瞬で膨れ上がる少年の肉体は、体毛に覆われていくと同時にその身を倍に膨れ上がらせる。
 2メートルにまで届こうかという程の長躯は、夜色に染め上げられた狼男の姿だ。
「カミ殺シテヤル!!」
 言って、乱杭歯の口を大きく開けると、少女の小さな頭へと牙を突き立てる。
「まだまだ経験不足ね。いくら無抵抗の弱者を殺して回ったところで、真に戦いでの経験値にはなりはしないの。そんな愚考を繰り返していた自分達を恨みなさい」
 乾いた音を立てて、空を噛み切った牙に、少年は横に立つ少女へ追撃のためにその姿を視線を走らせる。
「――な!?」
 そして、その目に映ったのは今しがた自分が喰らい突こうとした少女の額だ。その小さな額に――、
「――ツノ?」
 小さく額から、突き破るように覗くとんがりに、少年は一瞬思考を停止させる。
「いい? 暴力ってのはこうやって使うのよ――!!」
 刹那。少女の腕が持ち上がった。
 周囲の空気を巻き込んだ重い振り上げ。
 天から鉄槌の様に振り上げられた腕は、どす黒い肌に染め上げられた巨腕と化していた。
 ――衝撃。
 地震とも取れる下へと落ちる一撃は、骨組みだけとなっていたその建造物を、跡形もなく破壊した。
 轟音と共に上がる土煙に、周囲に集まっていた人影が歩み寄る。
 誰もが見えない向こう側の様子を覗こうと視界を凝らす先。ズタボロになった狼男を片手で持ち上げる少女――マチの姿を確かめた。
 煙の晴れた先。自分を見る仲間達に、マチは高らかに声を上げた。
「どんなもんよ――!!」
 瞬間、歓声が上がった。
「よっしゃぁ!! 最後の一人倒したぜぇ!!」
「さすがマチさんよ!!」
「マチさん最高――!!」
 口々に屈強な男。華奢な少女。老若男女が瓦礫の上に立つマチへと歓声を上げる。
 その歪に膨れ上がったマチの腕にも、額の角にも周囲は気にした風がない。それどころか、取り巻く周囲にもマチと同じ様に何処かが違う者たちが紛れ込んでいた。
 そんな様子を、離れた所で見ていた雄吾-ゆうご-は思わず口を開いていた。
「――おい、お前ら隠密部隊じゃないのかよ!!」
 既に叫びとなっている雄吾の言葉にも、隣に立つ渚-なぎさ-はにこにこと笑みを浮かべるだけだった。
「こんなに騒々しい真似して、絶対周囲に異常がばれるだろうが!!」
「大丈夫ですよ。普段の僕達ならいざ知らず。今のみんなには一般人の目には映りませんから」
 そういう問題か、と雄吾は頭を痛めるが。周囲はそんなこと気にした風もなく盛り上がっている。
 既に息絶えた狼男を振り回すマチの姿に、周囲の奴らはまるでアイドルを見るように熱狂的だ。
 一見異常なその光景も。邪気のない純真な喜びに満ちた感情の渦に、何処か狂気染みた色が感じられない。それこそが狂気ではあるのだが、それに自分から関わろうとする気力も体力も雄吾にはなかった。
「雄吾さんこそ。初陣からそんなに無茶して大丈夫ですか? いくら適正があるとはいえ、埋め込んで一日程度じゃ本当はまともに動けないんですよ」
 渚の言葉に、雄吾は額に汗を浮かべながら大丈夫だよ、と強がって見せる。
 渚の言うとおり、敵を3体相手にしただけで息は上がり、言いようのない疲れを感じる。
 何より、臓腑からこみ上げてくる気持ち悪さが何より性質が悪い。
 ガキの頃に一度だけ手を出して、以来二度と触ろうとしなった煙草の気持ち悪さを思い出させる。
「そんなことより。これからどうするんだよ?」
「僕達がずっと付けていた奴らはこいつらなんですけど、肝心のリーダーがいないんです。いま、琴歌-きんか-に探してもらっているんですけど、どうやら他も動いてるみたいなんで。何とか今日中に見つけ出して、他より先に出ようと思います」
「じゃあ、尚更こんなところで祭りなんぞしてる暇はないだろう」
 そうですね、と苦笑を浮かべた渚は、とうとう重い腰を上げて仲間達の下へと歩き出した。
「みんな、そこまで!!」
「あ、渚――!!」
 自分が倒した狼男の亡骸を投げ捨てると、マチは変調させていた肉体を元に戻して、渚に寄り添うと腕にしがみつく。
「おお―――!!」
 その様子に、ある者は面白うそうに、ある者は目から血の涙を流して二人を凝視している。
 周囲の視線に苦笑する渚は、しかし、表情を引き締めると全員に聞こえるように声を上げる。
「みんな良くやってくれた。だけど、まだ肝心の藤代雄二-ふじしろゆうじ-が見つかっていない。別働隊がいま捜索しているから、見つかり次第僕達も動く。悪いけどもう一がんばり頼むよ!!」
 鼓舞する渚の声に、男女年齢の区別なく、信頼の声で答える。
 見たところ20もそこそこのガキに、どうしてこれほどの人望があるのだろうか、と雄吾は思う。
 妙な疎外感を感じつつも、自分もこの中の一人となったのだと、雄吾は改めて思った。
 迷彩服の上、自分の胸に握りこぶしを置く。
 確かに其処にあるそれの感触に、言いようのない感情が渦巻く。
 使って目の当たりにした力に、あの時自分にこの力があれば、と思考して――くだらないと首を振った。
「雄吾さん――」
 不意に目の前で声を掛けられて、雄吾は意識を外界に戻した。
 其処には笑顔で自分を見る渚があり――、
「さあ行きましょう!!」
 気づけば、周囲には自分を力強い眼差しで見る奴らがいた。
 その事に、妙な気恥ずかしさを感じつつも、雄吾ははっきりと口にした。
「――ああ、やってやるぜ!!」
 雄吾たちは、今宵決戦の夜に勇ましく動き出した。

To be continued

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