天夜奇想譚

天夜奇想譚 -狼- Chapter1

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作者:飛崎 琥珀

タイトル:Chapter1


 ――3 days ago
          ※
 私はよく、両親に連れられて道を行く、同じくらいの歳の子供を目で追っていた。両手を父親と母親に繋がれ、嬉しそうに道を行く相手を、私は羨ましいと思ったからだ。
 いつも私の手を引いてくれたのは、大好きなお父さんの大きな手だけだった。
 優しい笑みを浮かべて自分を見てくれるお父さん。
 その格好良くて、笑顔の素敵なお父さんが大好きで。そんな人に手をつないでもらって、自分はこんなにも幸せなのだから…。
 私は、この空いたもうひとつの手を、お母さんがいつもつないでくれていたなら、自分はどんなに幸せだったのだろうと、考えずにはいられなかった。
 ――だから、私はいつも両親に手を繋がれた子供を、羨ましそうに目で追っていたのだ。

          ◇
 それは、浅桐優希“あさぎりゆうき”にとって突然の知らせだった。
「本当なの、おとうさん!?」
 12月がもうすぐ訪れる、ある日の朝。
 朝早くに届けられたエアーメールを、落ち着いた様子で――しかし、何処か抑えきれない喜びを笑みの端に浮かべた父親に、優希は向かいのテーブルから身を乗り出して聞いた。
 食事を取る自分の前に乗り出す妹に行儀がわるいぞ、と迷惑そうに告げる兄の様子も気にならず、普段は大人しい優希は、興奮した顔で父親の持つ手紙に視線を送る。
「ええ、本当です。12月までに――優希さんの誕生日までには戻ると、手紙には書いてありますよ」
 一通り読み終えた父親は、高校生になったというのに何処か幼い娘の仕草に、微笑みを強くしながら持っていた手紙を差し出した。
 それを受け取った優希は、落ち着かない様子で不当に入っていた便箋に目を通した。
“はーい、元気にしてるマイファミリーたち?
 もうすぐ一年が終わるけど、もう4年近く家に戻っていないことに、つい先日気づきました。そんな訳で、もうすぐ我が愛娘の誕生日が近づいていることだし、12月までにそちらに帰るからねぇ~。
 追申。
 優希、お土産楽しみに待っててねぇ。誠治、アナタも元気にしてる? 誠さん、早く会いたいわ♪”
 ほぼ1年ぶりに届いた母親の手紙は、個性的な文面だった。
 そんな綴られ方が、かえって優希の心には懐かしく、綴られた一文に胸を暖かくした。
「お母さん。私の誕生日覚えてくれてたんだ」
「――良かったですね、優希さん」
 娘の喜びように笑みを深くする父親に、優希は満面の笑みで応えた。その喜びように、横でトーストを齧っていた兄もまた、小さく笑みを浮かべていた。

          ◇
 天夜市という名の街がある。
 近年、田舎だった土地を切り開いて、急速的に発展した街である。
 近代的な家やマンションが立ち並ぶ住宅街には、平日の朝に相応しい静かな活気と流れが生まれている。
 日が昇り、学校や仕事へ向かう人の流れ、家事に勤しむ人の姿。
 見慣れた風景に、優希は兄――誠治が駆るバイクのタンデムの上で、何気なく“平和”という言葉を当てはめてみた。
 通りなれた円弧を描く道路を走りぬけながら、眼下に広がる都心の街並みを眺めながら、優希はフルフェイスのヘルメットから出ている、黒いセミロングの髪を風に遊ばせる。
 冬の寒さが目立ち始める空気から身を守るために、優希は学校の制服の上に黒いジャケットを羽織っていた。対照的に白いジャケットを羽織る兄のそれとは、おそろいで選んだ同じ型の物だ。
 その白いジャケット越しに、優希は腕を回しながら兄の身体に捕まり、ふと朝のことを思い出して、誠治に聞こえるように声を上げた。
「ねえ、お兄ちゃん! やっぱり嬉しい?」
「――何が?」
「おかあさんが、帰ってくることだよ!」
 数瞬の間の後。カーブを曲がり終えた所で、誠治が口を開いた。
「当たり前だろ。4年も会ってないんだから、俺だって会いたいに決まってるさ!」
 声を荒げて返す誠治の言葉に、そうだよね、と優希は笑みを浮かべる。
 優希と誠治の母――浅桐紗希は、世界をまたにかけるジャーナリストであるというのが、優希の母の仕事に対する見識だ。
 その実、世界各国の事件を様々な雑誌や新聞に載せている母の名は、故郷であるはずの日本でこそあまり見られないものの広く知られている。
 知り合いや友人に頼んで、優希は母親が関わった記事を集め、ひそかに収集している。
 海外の政界のスキャンダルを取り上げ、時には絶滅危惧となっている動物のために環境保全を訴えかける記事を書き、争いが起これば各地の紛争地帯に赴きその凄惨な様子を文字に綴る。
 そんな、時に自分たちが心配するような事ばかりを続ける母親の事を、しかし優希はほとんど何も知らずに過ごしてきた。
 一般的な母親と子供の共にする時間を、優希はその何十年分の一程も得ていないからだ。
 そんな優希には、ずっとこの胸に抱えるひとつの思いが、片時もはなれずに居座っている。
 優希はいつもそれをうまく言葉に出来ず、気がつけば擦れ違う家族たちの姿を羨ましげに眺めていた。
 ――両親に連れられた、子供の姿。
 大人になるに連れて、少しずつそんな他人の光景を気にしなくなっていった優希は、自分の家庭をちょっと変わった――だけど大好きな家庭であると思っていた。
 だから、時々でも連絡を寄越し、そして時に自分たちの下へ帰ってきてくれる母親を、優希は素直に母親と思うことが出来た。
「それより、少し飛ばすぞ! このままじゃ間に合わない」
 考え事に耽る優希に、誠治からの活が入る。意識を現実に戻した優希は、少しずつ見え始めた巨大な敷地に目を向けながら、緩んでいた腕に力を込め直す。
 秋の終わりを告げる天夜市の街を、二人はけたたましいバイク音と共に走り抜けた。

          ※
 不意に、喧騒を耳にして目を覚ました。
 兄と呼べる人と、二人で朝の街並みを見ていた時の夢だ。
 その日は、久しぶりにお母さんに会えると、ただそればかりが嬉しかった日の思い出。
 ――しかし、それは脆くも夢のままに終わってしまった過去の記憶。
 ビルとビルの間。其処は日の差し込まない影となっている。
 私は今日も、アレ以来、恐怖と憎悪しか思い出さなくなった夜を終えても、自分にとっては、絶望の朝しかこない事を、また思い知る。
 所々が汚れた服も、艶を失ったセミロングの髪も――まして、お洒落なんて言葉が浮かぶはずもなく、ただボロボロになった顔を、外の光を拒むように膝の間に埋める。
 もう、日の下には出たくない。
 その行為が、少しずつ磨耗する心をさらにすり減らすだけの徒労である事に、自分はこの数日で何度も思い知らされた。
 ――思い出すのは、満月の浮かぶ夜空。
 初めて、大好きな父親に反抗した日。
 家を飛び出した自分は、涙でよく見えない視界の中、夜の住宅街をただ走りぬけた。
 辿り着いた先は、昔、大切な友達と通い慣れた小さな公園。
 いつしか此処で遊ぶ事もなくなり、成長するに連れて私が少しずつ記憶から薄れさせていた場所。
 そんな場所に無意識に辿り着いたのは――もしかしたら、この聖地で彼女が待っているかもしれないと、無意識に願っていたのかもしれない。
 気がつけば、私はあるはずのないその人影を探して、さして広くもない公園を彷徨い歩いていた。
 そして、歩き続けた先に見たものは――。
「ぃや…!!」
 不意に、思い出したくもないモノを思い出しかけて、慌てて被りを払った。
 全身に冷や汗が流れ出し、見る間に身体中の体温が失われていく。
 血の気が引いていくという言葉を思い出し、私は今の自分がまさにそうであるのだな、と他人のように考えた。
 己としての思考は、風前の灯となった自我を容赦なく打ち砕く。
 私という存在を認識しなくなった世界を心が視ては、そんな世界に自分は耐えられない。
 だから、私は世界に認識されなくなった私という存在を、ただ他人のように見つめるしかない。
 変えられない事実が、自分に降りかかっているなどということを、私はとても直視する事はできなかったからだ。
 ――だから。
 私は最初、それはただの偶然だと思っていた。
 路地裏を目にして立ち止まる姿あった。
 人目で長躯と分かるシルエット。影よりもなお黒く見えたのは、その全身が黒い服を纏い、黒い髪を靡かせていたからかもしれない。
 ――しかし、そんな黒づくめでありながら、その瞳は確かに私を見ていた。
 その眼を見た瞬間、私は夜の公園で見たそれを思い出す。
「ウソよ…」
 前髪から覗いた眼が、確かにあの時と同じ様に自分を見ている。
 あの時とは違う場所である路地裏で、しかし、確かにあの瞬間が再現されていた。
 ――これはもしや、終わることもなく繰り返される悪夢なのだろうか。
「いやあぁぁぁぁぁ――!!」
 弾かれたように立ち上がると、私は逃げ出すように路地裏の奥へと逃げ出した。
 ――あの日から始まった悪夢は、まだ終わらない。

          ◇
 チャイムギリギリで駆け込んだ教室は、未だ喧騒に包まれたまま担任の登場を待っていた。
 優希は、教卓の前にいつもスーツをきっちりと着こなした担任の姿がない事に、そっと胸を撫でると後ろのドアから中へ入る。
 後方にある自分の席に向かおうとして、その席に見慣れた顔が二つある事に優希は気づいた。
「よっ、優希」
「――おはよう」
「おはよう、二人とも…」
 自分に挨拶をしてくる二人の女生徒に、優希は笑顔で応える。
「珍しいじゃん。優希がチャイムぎりぎりなんてさ」
 短い髪の日に焼けた顔が印象的な少女――新田忍“にったしのぶ”は、朝の部活があったのか、未だジャージ姿のまま優希の前の席から声を掛ける。
 一般生徒指定の青いジャージではなく、そのジャージは背中に校名が書かれた運動部員専用の黒いものだ。
 秋が終わろうかというこの時期でも、忍の肌はチョコレートの様に小麦色で、その鋭くも整った顔つきは笑うと思わず男前という言葉が先に出るようだった。
 少なくとも、優希は忍を格好良いと思っており、一度だけそれを口にした優希に、酷く落ち込んだ表情をした忍を見た優希は、以来その言葉を本人に行った事はない。
 だけど、と優希は思う。椅子の上であぐらをかく忍の姿を見て、そのジャージに視線を送り――、
「忍ちゃん。教室でそんな格好したら駄目だよ」
 男っぽいその仕草を、格好良いと思っている優希は、本人が嫌がっているのだからと、せめて女らしくなれるようにそういった端々を注意する。
 それが、せめて友人にしてやれる事ではないのだろうか、と優希は考えるのだが…。
「ああん? 別に、朝っぱらから男の注目を浴びる優希や真紀“まき”じゃないんだから。別にそんなこと気にしたってしょうがないだろう」
 睨んでいる、と傍目には見えかねない不貞腐れた表情に、優希はいつもの事ながら涙目になってたじろいでしまう。
 優希は別に、忍が自分を嫌っているわけではない事は重々承知しているのだが――。
「何言ってるのよ。優希は貴女を心配して言ってるんでしょ。そんな顔して八つ当たりなんかしないでよ…みっともない」
 そんな優希を庇う様に、優希の横にいた席の少女が読んでいた文庫本から視線を外して言葉を発していた。
 神嶋真紀“かみしままき”。
 つい今しがた、忍が優希と並べて出した相手だが、優希は自分よりもこのもの静かな少女がずっと美人であると思っている。
 名のある家の次女で、綺麗な銀の髪が特徴的な大和美人。
 その眼鏡越しの涼しげな視線は、長い付き合いの忍をしょうがない、といった様子で見ていた。
「あのね。年頃の女が、部活を終えたって言うのに、何時までもジャージ姿でいるなんて…もしかして、もう女を捨てたの?」
 ――そのもの静かな物腰とは裏腹に、口はとても悪いのだ。
「な、なんだとぅ~」
 さすがに、今の言葉には怒りを感じたのか。忍は真紀に向き直ると椅子の上に片足を置き、腕をまくりながら啖呵を切る。
「ようし分かった。ちょっと自分が美人で男にもてるからって、友人であるアタシにその発現! いいだろう、そんなに言うなら着替えてきてやろうじゃねえぇか!!」
「着替える、て更衣室に行ってたら完全にHRに間に合わないわよ」
「はん。別に更衣室に行かなくたって、此処でぱぱっと着替えちまえば…」
「わっ、わっ!?」
 突然、ファスナーも降ろさずにジャージの上を脱ごうとする忍に、周囲に男子の視線がある事に気づき、慌てふためく。
 完全にあきれ返った真紀の視線にしたり顔のまま、そのままジャージを脱ぎ捨てようとして――、
「こら。何をこんな所で馬鹿なことやってるんだ、新田」
 ごつん、と黒い出席簿で殴られたとは思えない強烈な音が、忍の上であがった。
「痛っててぇ。――げ、春香“はるか”センセ!?」
 忍の陸上部の顧問であり、担任である春日井春香“かすがいはるか”が、教え子の愚行をたしなめていた。
「まったく。神嶋がいながら、この猿の奇行を止められないとは情けない。お前たちが毎年同じクラスなのは、神嶋――お前がこのサルの奇行を止めるためだって分かってるだろう」
 さりげなく、極秘情報とも思える問題発言に、優希は目を丸くする。真紀もまた、忍同様に突拍子のない担任の発言に、その端正な顔を苦しげに歪めていた。

          ◇
 さあ、HRを始めるぞ、という春日井の言葉と共に、教室は一応の収束を迎えた。
 いつもと変わらない、ちょっとした伝達事項が教室の中で交わされる。
 その中で、優希は自分の席に着きながら、窓際の一点を見つめていた。
 比較的男子がいる窓際の一列。その後ろから三番目の席には、誰も座っていなかった。
 もう、一週間もその席は同じ状態だった。
 優希は、そこで始めてその席の主を思い出し、あっ、と声を上げそうになった。
「――それから。新田辺りには特に残念な知らせだ」
 想い出した事に焦りと後悔を感じたが、不意に友人の名前が挙がり、優希は意識を教師の声に戻した。
「本日から、大会を控えている運動部も放課後の活動は中止だ。学校が終わったら、速やかに帰宅するように」
「ええぇぇ~!?」
 忍を筆頭に、運動部に所属する男子をたちからも声が上がった。
「ヤカマシイ!! 何かがあってからじゃ遅いんだ。幸い、うちの学校ではまだ被害は出てないが、他の近隣校では既に被害者が出ている。お前らもその仲間入りをしない内に、とっと放課後は帰るんだな」
 怒りつつも、最後は他人事のように締めくくる春日井の言葉は、申し合わせたようなタイミングでなったチャイムで打ち切られた。
「――ああ、浅桐」
 日直の号令でHRも終えた教室。1限目の移動教室に向かおうとしたところを、優希は春日井に呼び止められた。
 一緒に移動しようとしていた忍は、ぶちぶちと文句を言いながら出て行ってしまい。それを追っていた真紀も、優希に気づかずに出て行ってしまった。
「なんですか、先生?」
 仕方なく、春日井の方に向き直る優希に、春日井は何処か真剣な顔で口を開いた。
「光野“みつの”の事だが、今日は朝、家に寄ってきたのか?」
 言われて、優希は誰も座っていない席を思い出した。
 今日は、朝からうれしいことがあって、ついさっきまでその人物の事を忘れていた事を、改めて思い出す。
「――すみません。今日は遅刻しそうだったので、おに――兄のバイクでまっすぐ来てしまったので」
「あ、いや。それなら別に良いんだ。別にお前に頼んでいたわけではなかったし、お前と光野の仲が良かったのを知ってたから、今日も朝から見舞いに行ったのかと思ってな…」
 申し訳なさそうに頭を下げる優希に、春日井の方が慌ててしまった。
「別に、行ってないなら良いんだ。それに、HRでも言ったが、今は何かと物騒だ。朝に被害が出ないとも限らないしな。出来れば、当分はお前も見舞いは控えたほうが良いだろ」
 呼び止めてしまってすまなかったな、と春日井は、優希に教室を出るように道を明ける。
 気づけば次の授業までそう時間がなく、既に教室には春日井と優希の二人しか残っていなかった。
 優希は、ふと春日井の様子に違和感を感じたが、時間があまりないことに気づくと、教科書を持って教室を後にした。
 それを見送った春日井は、優希を送り出した笑顔を潜め、疲労と焦燥の色を表情に浮かべる。
「――うちの学校ではまだ被害はない、か」
 自分で言った言葉を、春日井は反芻しながら自嘲する。
 ――そう。まだうちの学生たちに被害は出ていない。ただ、被害に遭っているのかどうかが分かっていないだけだ。
「光野夏輝“みつのなつき”。これで一週間連続で行方不明か…」
 春日井は、自分の教室に出来た埋まらない席に視線を送る。どうか、その机の上に花を置くことにだけはならないで欲しいと、春日井は説に願った。
「――その願いも、あまり期待できないのかもしれないけれどな」
 春日井は、朝の会議で知らされた内容と、この後行われる緊急の職員会議を思い出しつつ、そんな言葉を漏らしていた。
 チャイムが鳴ると、春日井は教室を後にした。どちらにせよ、自分には予想しなかった仕事が増えてしまった。
 今はそれをいち早く処理することを考える。
 ――それが、行方不明の我が生徒をいち早く保護できる、何かしらのきっかけになると信じているからだ。

          ◇
 住宅街の一角。
 住宅街の中でも、とりわけ高級住宅街と呼ばれる家々が立ち並ぶ辺り。
 そのうちの大きいとも小さいとも言えない一軒の家の前で、今なお人垣は無くならずにいた。
 手入れの行き届いた庭が見える、石垣に囲まれた一軒屋。その入り口に当たる場所には、「KEAP OUT」と書かれた黄色いテープが張られている。
 そのテープの前には、集まる野次馬を入れないように、制服を着た二人の警官が立っていた。
「あの、少しでもよいんです。光野さんちの方々はどうなったんですか!? 大事は無いの?」
 一番前にいた中年の女性が、心配そうに警官たちに中の様子を尋ねる。
 しかし、何度女性が尋ねても、警官たちからはいっさいの情報は齎されなかった。
 そんな問答の続く入り口の横を、二つの人影が横切った。
 一人は、草臥れたスーツを着た、何処かやる気の感じられない表情の男。180近い体躯は無駄なく鍛えられているが、この男のやる気のない姿勢の内に隠された隙のないたたずまいに気づけるものは、果たしてどれくらいいるのだろうか。
 尾霧 希“おぎり のぞみ”は、無精ひげを生やした顎を擦りながら、ポケットからくしゃくしゃにつぶれた煙草の箱を取り出す。
「今から現場に入るんだぞ。中の証拠に傷をつける気か?」
 箱から煙草を取り出し口に加えたところで、背後から鋭い女性の声が尾霧をたしなめた。
 尾霧は宙を見つめ、はっ、と息を吐きながら煙草を口から離すと、面倒くさそうに後ろを振り返った。
「素直に、煙草のにおいが嫌いだって言ったらどうだ? 大体、お前こそ現場保存の鉄則から縁遠い奴もいないだろう」
 スーツの上にコートを羽織り、化粧っ気のない貌は眼を鋭くさせ、尾霧を睨む女性の顔に、尾霧はおー怖い、と怖くもなんともなさそうに首をすくめる。
 彼女に対して、尾霧の様な振る舞いをする人間がいれば。いつも彼女は即座にコートの内側、肩吊るし型のホルスターに収まった拳銃を取り出しているのだが。この時の彼女は、どうでも良い過去の思い出を不意に思い出しており、そんなことは忘れていた。
 それでも、目の前の男が重度のヘビースモーカーでありながら、自分がたしなめれば未だに煙草をしまう事実に、彼女は顔をしかめずにいられなかった。
 そんな彼女の様子を気にすることもなく、尾霧は野次馬の横をすり抜けて、入り口を守っている警官の一人に歩み寄った。
「ごくろうさん」
「尾霧警部! ご苦労様です」
 見慣れた部下に挨拶を交わす尾霧に、当の部下はきっちりとした敬礼で返す。
 自分がこうした格式ばった物を嫌っている事を、尾霧は再三に渡って教えているが、この若く真面目な警官は一向に直らない。
 敬礼されるたびに、すごく居心地の悪そうな顔をする尾霧の貌を、彼女は後ろで意地悪く見ていたが、その貌に気づく尾霧も、今日はこの新米警官に同じ口上を並べる気にはならなかった。
 その新米警官に中に入れてもらい、玄関から家に入ろうとしたところで――、
「待ってください! 貴方は刑事さんでしょ?」
 呼び止められた尾霧は、つい今しがた通り過ぎた野次馬の中で、必死にこっちを呼び止める女性の姿を見つけた。
「なんだ、あれは?」
 怪訝な顔をする彼女を他所に、尾霧は深刻な顔をする女性の下へ歩み寄る。
 既に、テープから超えそうな女性を、警官たちが必死に押し留めようとするが、そんな警官を尾霧は一声で制した。
 警官から解放された女性は、自分も無闇に暴れることをやめ、尾霧に向かい合って慌てる気持ちを落ち着ける。
「貴女は?」
「最初に通報してくれた方です」
 尾霧の言葉に、隣にいた新米警官が答える。
「あの。私見てしまったんです。それで、急いで警察と救急車に電話したんですけど」
「落ち着いてください。何を、見たんですか」
 やる気のない口調ではなく、優しく――何処か人を落ち着ける声音で、尾霧は女性に話しかける。
「その。ずっと行方不明だったこの家の娘さんを、見たんです」

         ◇
 現場の惨状を見て、まず彼女は、犯人と思しき目撃者をみたという女性の言葉を裏付けることが出来たな、と思った。
 尾霧もそうなのか、その顔は酷く歪んでいて、目の前の惨状に静かに手を合わせる。
 彼女も習って同じ事をするが、尾霧ほどにこの行為に意味を感じていない。
 現場に立ち入った際、死体を前にしたときにする儀式のようなもの。
 ファンタジーや魔術といった類が嫌いな彼女にしてみれば、一番抵抗の少ない似た行為かもしれない。
 信じる信じないは別にして、だ。
「それで、鑑識の結果は?」
「――言うまでもないだろう。これが人に出来る芸当か?」
 尾霧が鑑識に話しかけるのを、彼女が辛辣な言葉で遮る。
 この場では部外者である彼女に、途端に敵意を見せる周囲に尾霧はため息を吐くが。当の本人はその視線に動じた様子はかけらもない。
 むしろ、好戦的な周囲の空気を、彼女は好ましくさえ思っている。
(どうも、最近の私の周囲には、なよっちい奴しかいないんだ)
 それが、自分たちに挑戦的な彼女の理由だとは、誰も判りはしないだろうが、だからといって、尾霧にしてみればこんな状況で操作を続けるのは面倒なことこの上ない。
「あのな。突然何年ぶりかに連絡をとってきたかと思えば、現場検証に立ち合わせろなんて無茶を、こうして何とか通してやったんだ。せめて大人しく現場検証をしてくれ」
「ああ。お前らにちゃんと仕事が出来るなら、私は何も言わないさ」
 その言葉に、今度こそ場の空気が凍った。
 懐かしさ半分。自分たちの管轄半分とこの元同僚を連れてきた尾霧だが、これは失敗だったかと考える。しかし、その顔が笑みを浮かべていることには、尾霧自身も気づいていなかった。
「おい、貴様! それに素手で触ろうとするんじゃない! 貴様も異形になりたいのか? そっちは何を大切な証拠をぞんざいに扱っている。どう見てもそれは異形の身体の一部だろう!」
 若手の鑑識から、次々と怒声にも似た声で喝を入れ、彼女は現場の動きを操作していく。
 これが、元々彼女の捜査方法であることを、尾霧は思い出していた。
 鑑識も部下も――時には上司まで使って、現場検証から事件捜査までを指揮する。カリスマ性と実力を持つ彼女が、今また自分の目の前にいる事に妙な懐かしさに囚われている間に、現場は先ほどまでのスピードとは比べ物にならない速さで作業が進んでいく。
 彼女に対して敵意を抱いていた現場の人間も、次々と的確な指示と自分たちの知らない事柄に対処法を突きつけてくるこの部外者に、いつの間にか信頼に近い感情を抱きながら命令に従っていた。
 いきなり現れた部外者が、こうまで素直に従っているのは、彼女の力量もさることながら、尾霧が連れてきた、という確かな信頼関係があればこそ、ということを彼女は見抜いていた。
 いくら元同じ職場の人間とはいえ、部外者に現場指揮を自由に取らせることなど、誰もよしとはしないだろう。
 しかし、先ほどから彼女にはどうしても不愉快になる笑みを浮かべる、このやる気のなさげな男の培ってきた実力とカリスマが、此処で彼女の行動を後押ししている。
 また、個々の人間の技量と、プライドよりも仕事を優先する精神に彼女は心地よいものを感じていた。
 自分の部署には、どうにも独断専行に走るものや、趣味に傾倒するもの。頼りない部下と自分には不安要素が大勢いるのだが――。
(改めて。私にはこっちのほうが向いていたかもしれん)
 そんな事を彼女は思うのだった。

        ◇
「それで。専門家にはどう見る?」
 助っ人のおかげで、あっという間にひと段落着いた現場で、尾霧は肝心の結果を彼女に尋ねる。
「まあ、言うまでもない。最初に言ったとおり、これは異形の仕業だ。被害者は二人。この家の夫婦で、母親の方は海外を飛び回るくらいに仕事で良く家を空けていた。父親は大学教授としての仕事をこなしながら、自分の子供のために主夫をしていたそうだ。
 母親は久しぶりに家に帰っていて、長い休暇を家で過ごしていたが…」
「そんな家に、突如異形が踏み込んできた、ということか」
 まるで獣の爪に引き裂かれたような死体を一瞥し、彼女の言葉に続くように、尾霧は言葉を吐いた。
「夫婦の子供は二人だ」
「兄と妹。兄は妹よりふたつみっつ上。その兄はそっちで保護しているそうだな」
 彼女の言葉に、尾霧は動揺する少年の顔を思い出す。
「ああ。たまたま友達の家に泊まっていて、家に帰った頃には野次馬たちに取り囲まれた我が家だったそうだ」
 自分の家に人が群がり、警察官が入り口を張っている。そんな光景を突然目にした気持ちはいかほどか。それは経験したものでなければ分からないだろう。
「―――」
 尾霧は、胸の中を流れる感情を誤魔化すように、先ほどしまった煙草に手を伸ばす。
「おい――」
 しかし、自分の横でそれを見咎める彼女に、尾霧は仕方なくその手からくしゃくしゃになった箱を離した。
「で、肝心の妹の方が数日前から行方不明、というわけか」
 尾霧は、中に入る前に聞いた、女性の言葉を思い出す。
「目撃者の話が本当なら、その娘が犯人で、既に末期の感染者となっているのだろう」
「――完全に、俺たちの管轄じゃないな」
 そもそも、異形がらみと分かれば、こんな刑事課が出向く前に、異形対策本部が出張って仕事を持っていくのだ。
 その異形対策本部が、まともに動いていないという現状が、どういう状況なのかも尾霧たちには知らされていない。
 ただ、この元同僚が突然、自分を頼ってまで現場についてくることを考えれば、並みのことでない事は、尾霧には手に取るように理解できた。
「どちらにせよ。早いところ容疑者の捕獲に当たらなければならないんだが――」
 彼女の言葉を遮るように、突然コートの内側にしまった彼女の携帯が鳴った。
 すまない、と言って携帯に出る。
「――もしもし」
『もしも…、じゃない…すよ! ゆ――、さん!』
 受話器の相手の声は、僅かながらも尾霧にまで聞こえてきた。
「ああ、うるさい! 分かったからそんな大声で怒鳴るな!
 それで。私の言ったように資料は手に入れられたんだろうな。――なに、統括に入れない? そんな事は想像するのに難くないだろうが、この馬鹿が!
 それを何とかしろと、私は言ってるんだ!――なに、できないだと?
 ――そうか。この私を前にして出来ないとほざくのか。―――分かったなら早くしろ! そうだ、なんとしてもだ!」
 先ほどとは違う、苛立ちを含んだ怒声に、周囲の人間はぴくりとも動かなくなっていた。
 先ほどの電話中の形相を見れば、もはや誰も逆らおうなどとは思わないだろう。
「――すまないな。ん?」
 周囲の空気が変わっている事に、彼女はいぶかしげな表情を浮かべるが。気にした風もなく尾霧へと向き直る。
「まあ、予想は出来ていたが。今回の事件――というか、ある事件が解決するまで、統括組織は異形がらみのほかの事件にはいっさい関与しない。お前たちで好きなように捜査し、事件を解決してくれ。
 ――ああ、ただし。絶対に異形の存在は世間に公表するな。首ひとつで済むような事態には絶対収まらないからな」
 それじゃ、世話になったな、と吐き捨てるように告げる彼女は、用がなくなったのか現場をさろうとした。
 尾霧は突然の事にさすがに呼び止めた。
「おいおい。それはいくらなんでも職務放棄過ぎないか?住民の安全はどうするんだ?」
 現にこうして民間人が犠牲になっている。
「説明なしで上層部が動かないってのは、あまりにも無責任じゃないのか?」
「なんだ。面倒くさいと言いながら、またいつものように首を突っ込むのか? 相変わらずだな、希。その性格は早死にするだけだと何時も言っていただろう」
 実力がありながら、何時までもエリートコースに乗れないこの男の原因を、彼女は以前と同じ様に指摘する。
 しかし、そんな事は気にならないのか、尾霧は冷たい視線で彼女のほうを見据えていた。
「もう一度聞く。上で何があった? つい最近まで、この街がとんでもない事になっていたのは、何も知らされていない俺たちでも、なんとなくは気づいていた。だがな、こうして上が麻痺して動かなくなる事態は、今までなかったはずだ」
 一部始終を知る彼女は、尾霧のその物言いに背を向けようとしていた足を止めた。
 このまま、何も言わずに去ろうかとも思ったが、この男に対してひとつだけ、用件が残っていた事を思い出したからだ。

「――希」
 彼女は、かつてと同じ声音で、尾霧の名を呼ぶ。
「お前には全てを知り、追うだけの実力も覚悟もない。そんな人間が、知ってどうにかできる世界じゃない。あの時も言ったろう。知らなければお前はまだ、そうして刑事でいられると」
 何時かの、本当に何時かと同じ言葉を、彼女は尾霧に返していた。
 其処にいたって、尾霧は彼女が何故、こうして突然に自分の前に現れたのかを理解した。
 何も言わなくなった尾霧に彼女は背を向けると、割れる人垣の間を抜けて、部屋を後にしようとする。
 その背中に、かつての光景を思い出し――、
「時枷“ときかせ”!!」
 気づけば、尾霧は呼び止めていた。
 立ち止まる背中に、尾霧は一度吐いてしまった言葉を抑える事が出来なかった。
 かつて、いえなかった事。
 そして――今も本当は、言うべきではない事。
「――また、全てを独りで背負って行くのか?」
 それは、後悔か、恋幕か、懺悔か。
「―――」
 尾霧の言葉に、彼女は答えない。
 ただ一言、一瞥をくれた彼女の口が、尾霧にだけ伝わる様に口を吐いていた。
「―――!!」
 言い終えた彼女は、今度こそ用はなくなったといわんばかりに、その歩みを止めることなく現場を去っていった。
 その背中に、尾霧は何かを言おうとして、
「――柚子“ゆず”」
 かつての同僚であり、思い人の名を静かに口にするだけだった。
 そして、彼女が残した言葉を、その脳裏に焼き付ける。

 ――狼を、追え。

 尾霧は、咎めるもののいなくなった部屋で、懐から煙草を取り出すと口に咥えながら火をつけた。
 この日。尾霧 希は、己の知る世界の終わりを知った。

To be continued.



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