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*作者:グリム **タイトル:狩猟者―平穏な日々/lazy trap― ----  鈍色に輝くのは、日々と言う名の刃。  腐敗を進ませるは怠惰の日常。  何も得られぬのは無為の時間。  誰も彼もが知らずにその輝きを磨耗してゆく。  誰も彼もが知らずにその刃を首筋へ持ってゆく。  降りしきる雨。普段着が肌に張り付いて気持ちが悪い。  ああ、こんな山奥の道路まで逃げるなんて思いもしなかった。  巨大な影が、道路を占領するように待ち構えていた。ゴワゴワした毛に、人間離れした巨躯。一見すると猿かゴリラのようだが、……まぁ、間違っては居ない。ただ猿やゴリラよりも獰猛で、人の害となる。教科書に載っている猿人に近いそれらは、退魔士の間ではサスカッチと呼ばれる。意味は毛深い巨人だとか。どうでもいい。  そいつ雨水の滴る切先を向ける。 「さァ、どっから刻んで欲しい?」  こちとら逃げ回られてお預け喰らって――殺したくて堪らないんだ。湧き上って吐きそうになる哂いを堪えて、サスカッチとの間合いを測る。一瞬で詰められる距離だ。もう掌の上、そう思うと背筋がぞくぞくした。  サスカッチが荒い息をしてこちらを睨みつける。 「発情かァ? この猿が」  もう待ちきれない。殺す。  体を沈めると、そのままバネのように跳んで距離を詰める。空中で構えを整え、切り払った。肉の感触はない。着地、同時に反転。そこにサスカッチの姿は無い。すかさずその場から跳躍して離れる。着地。同時に響く轟音。  どうやら初撃を避けての反撃らしい。組まれた腕を叩きつけたようだ――地面には蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。  当たれば死ぬ。  外したと気付いたサスカッチの行動は素早い。こちらの位置を把握すると、砕けた道路の破片を投げてきた。大きさは拳ぐらいの石だが、当たれば頭蓋が砕ける。頭を傾げて躱し、身を屈めた。すぐ頭上を豪腕が通り抜ける。  遠距離の攻撃で怯ませてから接近による攻撃。基本的な戦略だが、どちらも即死級。性質が悪い。  屈伸を利用して、刀を薙ぐ。錆色の軌跡はサスカッチの横っ腹に喰い込んで止まった。 「チッ――」  咄嗟に刀を手から離し、その場から離れる。サスカッチの蹴りが空を切り、派手な音を立てて刀が地面を転がった。 「ハハッ、刀が入らないってどんな筋肉してやがんだよ」  刀は頼りにならない。  右腕に嵌めた手甲に魔力を奔らせて術式を編む。 「式名、五行――水遁、戒ノ氷」  サスカッチの周囲が一瞬白んだ。直後、サスカッチの周りの雨粒が凍りつき、その自由を奪う。唸りを上げるサスカッチをよそに、いち早く刀を拾い上げた。こんな拘束、長く持つはずがない。  拾い上げるのと、サスカッチが拘束を解くのはほぼ同時だった。 『ォォォォォォオオオオオッ』  猛り狂うサスカッチの声。  だがそれが、決定的な隙になる。  高く跳躍。サスカッチの頭上。見上げるその顔面に向かって刃を向ける。 「式名、五行――火遁、炎撫」  視界を赤々とした炎が埋め尽くす。サスカッチの悲鳴、しかしその苦痛に歪んだ表情は炎に呑まれて見えない。それが見れないのは残念だがこれで幕引きだ。  ――そして俺は地面に吸い込まれるように落ちる。  頭蓋を貫く心地の良い音がした。そしてそのまま、抉るように切り裂いた。  巨体が傾ぐなかで刀を引き抜き、その傍らに降り立った。湿った音がして巨体が倒れこむ。穴の開いた頭をつま先で小突くが、動き出す気配は無い。これはもう動かない。けれど。  高く、刀を上段で構えた。  転がったサスカッチの首に、もう何度目かになる突き刺し。  息は荒い。肌を滑る雨水は相変わらず気持ちが悪いが、突き刺している間はそれを忘れられた。  ――なんで、そんな悲しい考え方しかできないんですか? 「ハァ……」  ――貴女のために、祈らせてください。 「ハァ……くッ、ハァ……」  雨が、血だとか脳漿だとか、サスカッチの頭から流れ出した色んなものを流していく。ぼんやりとした街灯。誰も居ない国道。地面を打つ雨の音だけがうるさく響き渡っている。  寒い。  すっかり水を含んだ服はいつも以上に重く、肌に張り付く。アパートまでは遠い。  携帯を取り出して統括に繋いだ。死体を道路の端に寄せながら、その場に待機するようにと指示が下る。頭部は原形を留めていなかったので、焼却処分。肉を焼く匂いは相変わらず吐き気がするほど臭かった。  ぼんやりとした街灯を背もたれにして、統括からの処理班を待つ。先ほどまで気にも留めなかった寒さが、体力を奪う。指先の感覚はほぼ無くなっていた。冬の雨と言うのは、思っているよりも厳しいものかもしれない。  地面を打つ雨の音。  それに混じって、水溜りを弾く音が聞こえた。顔を上げる。  異形か、でもそんな気配は感じない。それとも、この寒さで感覚が死んでいるのか。  それが細かな足音だと気付く。辿ってみるとそこには、仔犬が一匹立っていた。ガリガリに痩せて、雨に濡れ、泥で汚れた小汚い犬。ただ瞳だけが潤んでいて、可愛らしい。そいつは何度か確認するように立ち止まりながら近付いてきた。少し歩いて立ち止まり、また少し歩いて、立ち止まり。その瞳はこちらをジッと見つめている。  思考が纏まらない。ただそれが近付いている事だけ分かった。  仔犬は俺/私の傍まで寄って、見上げてきた。  そして感覚を失いつつある指先を、舐めた。  心配するようなその仕草。涙は流れないが、どうしてか泣きそうになった。  繁華街には、しつこいぐらいクリスマスソングが響いていた。  まだクリスマスじゃないって言うのに、日本は本当に気が早いんだな、と思う。ポケットに手を突っ込み、白い息を吐く。相変わらず寒いし。早く春が来ないものか、とか考えながら信号を渡る。道行く人も寒そうに肩を竦めている。  それから少し繁華街から外れた場所に来た。何の変哲もない遊歩道。  つい先日までは――死体が三つもあったのに、今は何もない。 「相変わらず、か」  こんな事は初めてじゃない。浜野さんの時――微かに雪女の寂しげな顔が過ぎる――だって、全ての痕跡は消えた。後には何も残らず、そこには何があったかも、何が起きたのかも分からない。  立ち止まっていた事に気付いて、ゆっくりと歩き出す。  目的地はアヤメのアパート。今日は暇だし、久し振りに行こうと思い立った。理由はそれだけ。樫月を誘おうとも思ったが、あいつが居ると何か余計な事を言われそうな気がしたので放置。  ふと、手土産なんか持って言ったほうが良いのかな、と思い至る。でも幼馴染だしイトコなんだから畏まる事もないか。 「おんや。みっちー?」  振り返ると、ジーンズにシャツと言うラフな格好の女性が立っていた。印象的なポニーテルと躁っぽい雰囲気。いつも通りの樋沼さんが立っている。一見すると寒そうだが、当人はあまり気にしていない様子。 「樋沼さん……えと、こんにちは」 「どったの? こんな所歩いてるなんて珍しくない?」 「そうですね」  確かにこっちの方面まで出歩く事は少ない。帰り道とは逆方向だし。 「樋沼さんは買い物ですか?」 「んにゃ。私はちょっくら市場調査? あー、違うか。なんつったっけ、……まー、調査よ」  手をヒラヒラさせながら考える樋沼さん。ラフな格好のまま調査、と言うことはアンケートでも取るのだろうか、しかしそれらしい道具は持っていない。もしかして樋沼さんは探偵か何かなのだろうか。  この際だから聞いてみるか。 「樋沼さんって、お仕事は何を?」  尋ねると樋沼さんはヒラヒラさせていた手を止めて、それを口元まで持っていった。そして人差指を立てる。 「秘密」  口元から人差指を離すと、樋沼さんは眩しいぐらいの笑顔を見せてくれた。相変わらずの美人さんだ。 「まぁ秘密は置いといて、みっちーさ、この辺で起きてる殴打事件について知らない?」  殴打事件――と聞いて、思い出したのは、月初めからぽつぽつ聞く話だった。ここ最近繁華街で昼夜問わず起きている同一犯による暴行事件の事だ。何でも、人気の無い場所で若者数名が被害にあったらしい。まぁ、その若者達も“やられて当然”な犯罪行為を行ってたらしいけど。姉貴の話では退魔士や異形には全く関係の無い“普通”の事件、とのこと。だけど樋沼さんに話していいものか。  考えていると、樋沼さんが先に口を開いた。 「ま、みっちーに聞いても答えてくれないか。ゆずちーは守秘義務とかルールに厳しいし」  と、納得してしまった。  そして僕の脇をすり抜けて、振り返る。 「そいじゃみっちー。危ない事件に足突っ込んじゃダメだゾー?」  冗談めかした口調で言う樋沼さん。それから背を向けて手をヒラヒラさせて去って行く。相変わらず木枯らしとか台風とか、それっぽい人だ。鼻歌混じりで去って行くその足元、黒い塊が歩いてく。  ――黒猫?  珍しいな、と思いつつも角を曲がって消えていく樋沼さんの背中を見送った。黒猫も付き従うように去っていった。  アヤメの住んでいるアパートは、それなりに小奇麗でこぢんまりとしていた。他の住民の姿は無く、住宅地からも少しはなれたところにあるので、辺りは静まり返っていた。アヤメ、今、アパートに居るんだろうか。ふと、不安が過ぎる。家主が居ないのに来てしまったとなると……結構間抜けだな。  溜め息を一つ。 「まぁ、思い立っただけだし、居なくても仕方ないか」  そう呟いてみるが、やはり肩が落ちる。  郵便受けで姫月の苗字を探し当てて、部屋の番号を確認して探す。二階の奥。階段を昇って、少し辺りを眺める。景色が綺麗と言うわけでもなく、汚いというわけでもなく、何と言うか殺風景。空は太陽が出ているものの、雲がちらほら。  来週からまた雨だっけ。今年はよく雨が降る。  視線を前に戻して、廊下の一番奥にある扉に立つ。扉の横に据え付けられた郵便受けには、今日の新聞が入ったままになっている。それを横目で見ながら、チャイムを鳴らす。しばらく経っても返答はない。 「留守、かな」  念のためもう一度チャイムを鳴らすが、結果は同じだった。  仕方ない。繁華街にでも行って軽く遊んで帰ろうか。  諦め気味に軽く取っ手に手を掛けて引く。すると扉はあっさりと開いた。……どうやら鍵が掛かっていないらしい。無用心にも程がある。……いや、アヤメの事だから泥棒か何かが入ったところで返り討ちか。それどころかオーバーキルかもしれない。  少しだけ隙間を開けて中を覗きこむ。室内は薄暗い。カーテンでも締め切っているのだろうか。 「アヤメー……?」  声を掛けてみるが、返答は無し。鍵をかけ忘れて出かけているのだろうか。  恐る恐る扉を開けて身を滑り込ませる。部屋の中は静まり返っていた。留守……だとしたらこのまま開けっ放して置くのもなんだ。でもだからと言って中に入っておくのも、場合によっては危険だ。ああ見えてもアヤメって恥ずかしがりやだし。まだ死にたくない。と、これは言い過ぎか。でもロクな目には遭いそうに無い。  ――…… 「ん?」  帰ろうと扉に手を掛けたら、背後から物音がした。もしかしてアヤメ、居るのだろうか。しかし、物音の正体がはっきりとしていく。それは生活音と言うより、ガサガサと何かを漁るような音だ。まさか泥棒でも入っているんじゃないか?  不安が過ぎる。  留守中に泥棒が入っているとなると、さすがのアヤメだって対応できない。となると、僕が何とかするしかない。警察に連絡? でもそんな事している間に泥棒が逃げちゃうかもしれないし。思考をめぐらせていると、ふと、物音が止んだ。目的のものが揃ったのだろうか。とてとてと軽い足音が聞こえてくる。  ……嫌に軽い足音だな。  そう思っていると、足音の主が姿を現した。可愛らしい、子犬。耳がツンと立った、茶色い毛皮のイヌ。瞳はつぶらで、尻尾をはちきれんばかりに振っている。雑種だろうか。何かとっても擦り寄ってくる。 「ってか、アパートって基本的に動物禁止じゃないんだっけ」  子犬のじゃれ付きは徐々にエスカレートしていき、足首に思いっきり噛み付いてきた。 「あだっ」  更に腹ばいに転がりつつ、後ろ足で蹴り上げてくる。地味に爪が食い込んで痛い。しかしこんな子犬を蹴っ飛ばすのも気が引けるし、どうにもできない。しかし痛いのも我慢できないので、何とか引っ付いてくる子犬を引き剥がそうとする。しかし意外と力が強く、と言うよりも力加減が分からないのだろうか、中々はがれない。 「――、?」  部屋の奥から言葉になってない声が聞こえる。顔を上げると、そこには見知った顔が立っていた。  薄桃色のパジャマを着たアヤメ。眠たげに目を擦ってる。 「えっと、今起きたの?」  僕がそう言うと、アヤメが目をニ、三回目を擦る。それから何度か瞬きすると、しばし無表情。そして段々と、無表情が笑顔へと形を変えていく。その過程はとてもゆっくりで、徐々に気配が濃くなっていく。  これは、殺気か。  漫画とかでしか知らないが、ああ、殺気ってこういうのなんだな。 「海晴。理由は聞かない、言い訳も聞かない。出て行ってくれるかしら? なぁ、オイ」  子犬を足に付けたまま外へと飛び出た。  ……玄関を背にして考える。  アヤメ、菖蒲としての顔とアヤメとしての顔が混ざってるって事は――結構パニくってるなぁ、と。  そして少し可愛らしいとか考えたが、あの殺気の圧力を思い出して、そんな考えを打ち消した。  ……しばらくして…… 「不法侵入とはいい度胸だな、海晴」  あれから数分後。玄関の前に突っ立っていた僕はアヤメに引っ張られて部屋にぶち込まれ、壁際に正座させられていた。背後からは刃を研ぐ音が聞こえてくるし、さっきの三割増しぐらい殺気の圧力が掛かっている。どうしたものか、これは。  遺書の内容はフォルダの中身を見ないでくれ、でいいかな――  と、そんな事を考えていると、先ほどの子犬がこちらを見上げてくるのを気付いた。僕が気付くと、パタパタと尻尾が動き出す。そしてもそもそと膝の上に乗ってきた。小さいくせに、結構重い。さらに見上げてくる。 「アヤメ。この子犬はどうしたの?」  刃を研ぐ音が止む。 「拾った」  鍔を鳴らす音が聞こえる。どうやらお怒りは収まったらしい。振り返ってみると、ちょうど収めた刀を壁に立てかけている所だった。一瞥もくれず、今度は銀の手甲を拾い上げて拭き始める。案外マメなんだなぁ。  ……子犬は何が気に入ったのか、ぐでっと膝の上で寝始めた。 「捨て犬なの?」  しばらくこれは動けそうにない。 「知らねぇ。迷い犬かもしれないし、野犬かもしれない。そもそも興味が無い」  少なくとも、興味が無かったら拾ってこないだろう。でも言葉を飲み込む。照れるアヤメは可愛いけど、……命が幾つあっても足りない。でも余計な事を考える前に、膝の上に寝っ転がってるこの子犬をどうにかしないと。このままじゃ上手く動けない。  人懐っこいのか、図太いのか。 「名前あるの?」  質問を飛ばすと、背後で気配が動きを止めた。そしてまた動き出す。 「ない。イヌって呼んでるから」 「イヌ……って、そりゃさすがに可哀想だよ」  しかし当人は気にした様子もなく、僕の膝の上で器用に寝返りを打った。本当に器用だ、よく転げ落ちないな。  アヤメは少しの間黙っていた。 「なぁ、海晴」  間を空けた言葉。続く言葉を待ってみる。 「そいつ、お前のところで預かってくれねぇか? ここに置いてると面倒だから」  その言葉は予想通りだった。こちらとしても断る理由は無いので首を縦に振る。それに対して感謝の言葉も特に無く、アヤメは手甲の手入れに没頭する。件のイヌはと言うと、僕の膝の上ですっかり寝入ってしまった。  試しに頭を撫でてみると、気持ち良さそうに身じろぎ。 「でも、随分と綺麗だね。皮膚病もないし……やっぱり飼い犬なんじゃないかな」 「かもな」  答えは簡潔だった。  迷い犬の届けなんかは姉貴の伝手で手に入るかもしれない。 「じゃ、見つけるまでは預かっておくね」 「好きにしろ。もう俺には関係ない」  突き放したような声――でも何処か安堵したような、言葉。素直じゃないな。  気持ち良さそうな顔をしてる子犬を撫でながら、そんな事を思った。  繁華街。  夜の繁華街となればそれなりに若者で賑わい、“それなり”に悪い連中が闊歩する。そんな景色の中をポニーテールの女性が歩く。こんなに寒いのに、ジーパンにシャツと言う格好。しかも傍らには付き添うに黒猫が歩いていた。繁華街、しかも夜の繁華街ともなれば注目を浴びないのがおかしいぐらいの彼女だが、すれ違う人々は振り返りすらしない。  誰も彼女に気付かない。誰も“彼女達”に気付かない。  やがて彼女は路地裏に入った。やけに湿った黒い塊を踏み潰し、どんどん奥へ進んでいく。 「随分とやんちゃが過ぎるねボーヤ」  雲が掛かっていた月が、顔を覗かせて青白く路地裏を照らす。どん詰まりには人影が幾つもあった。しかしその人影は一つを除いては全て地に伏せっている。そいつはゆっくりと彼女に振り返る。  振り返った、その出で立ちは異様。顔面は薄汚れた包帯を巻きつけて隠し、所々染みのついた学ラン。手にはへこみや傷、それから血痕の目立つバット。恐らくその辺に転がっている連中を殴りつけたのであろうその凶器からは血が滴り落ちていた。 「どこの子? お姉さんに教えてくれると嬉しいんだけど」  しかし彼女は臆せず、問う。 「……」  低い声で、その包帯の男は呟いた。しかしよく聞き取れなかったのか、彼女は首を傾げる。  そして、男はもう一度呟く。いや、問うた。 「お前が、あいつか?」  それからの行動は素早かった。男はその辺に転がってる一人を片手で持ち上げて、投げつける。反応し切れなかった彼女はそれの下敷きになった。気絶した人間――ただ動かない肉の塊と言うのは、如何せん重いものだ。なので、彼女も容赦なく蹴り飛ばして退かす。  しかし体勢を立て直す頃には、男はバットを振り上げている所だった。  振り下ろすだけの打撃を躱して彼女は距離をとる。 「破綻した質問、ね。生憎だけど私は“あいつ”じゃなくて樋沼カンナっての。そんな有名カードゲームの雑魚みたいな名前じゃないわ」  ケラケラと笑いながら彼女――カンナは言った。  洒落が通じないのか、それともそもそも相手をするつもりが無いのか、包帯の男は無言。 「ま、そもそも話が通じる相手とは思ってないんだけど」  横薙ぎに振るわれたバットを避けると、カンナは一足で懐に飛び込み、襟首を掴む。そのまま背負いの体勢まで持ち込もうとするが、男は可能な限り首を引くと、頭突きをかましてきた。脳天直撃は免れるも、それはカンナの肩に命中。  相当効いたらしく、肩を抑えながら距離をとる。 「たたた……あんた、何処の退魔士? 悪いんだけどここらへんは統括のシマなのよ、フリーランスは引っ込んでてくれない?」 「……」  返答はあくまでも無言。そして連続で振るわれるバット。一振りに殺傷能力は無いが、速い。加えて言うならば、足場も悪い。気を抜けばその辺に転がっている人間に足を取られて、それから脳天に一振りをもらう事になる。  それは御免被るわ、カンナは内心で呟く。  何とか懐に飛び込もうとするが、初っ端に放った不意打ち染みた一撃は二回目なんてない。飛び込もうとすれば相手は一歩引いて振り上げたバットを下ろしてくる。得物が得物なだけ、幾らでも変幻自在に型を取れるのは厄介だ。 「チッ」  しかしもっと厄介なのは、相手がまだ――術式を使ってこないてこと。 「何出し惜しんでんのよっ」  バットを持った手首を狙って手刀を叩きつけるが、避けられ、お返しとばかりに回し蹴り。綺麗に下っ腹に食い込んだ。 「あ、ぐ……」  数秒重力の感覚が無くなり、地面に叩きつけられる。  カンナは圧倒的に押されていた。  そもそも、カンナはこういう肉体派――術式を行使せず戦う輩とは相性が悪い。大技の発動に時間が掛かるわけではないが、彼女は大技しか持たない。そのため、相手の手札が分からない内にそれを切る事ができない。 「つっ――……こんなんなら桶屋動かすんだった。ああ、あいつも動いてるんだっけ?」  ぶつぶつと文句を言いながらも、まだ倒れない。壁を背もたれにして立ち上がるカンナを眺めつつも、包帯の男は無言。無言のままバットを振るう。しかしカンナは寸でに身を屈め、バットは壁に叩き込まれて食い込んだ。そこに足払いを叩き付けると、包帯の男はバランスを崩す。間髪居れずに、カンナは蹴りを叩き込む。  狙いは股間。当たれば悶絶必死、だが――その一撃は片腕で受け止められた。  しかもあろう事か、その掴んだ足を支えに体勢を立て直す。その上で距離まで引き剥がされた。常人から外れた動き。 「たく……あんた軽業師? 正直、術式無しでそこまで立ち回れる退魔士って騎士ぐらいしか知らないわよ。それともまさか本当に騎士?」  包帯は男は少しだけ動きを止めて、怪訝そうな声を上げる。 「――騎士?」  とぼけてるのではなく、本当に知らないようだ。 「は、……って、知らないはず無いでしょう」  カンナは身を屈め、靴底の出っ張りを引抜く。それは蹄鉄のような形をしたナイフ。 「ちょっくら調子狂うけど……これ以上統括を舐められても困るから本気出してアゲル。特別に、ちょっとだけよ?」  ナイフを指先で回しながらカンナは不敵に笑う。  そして付け加えるように、もうヤケクソよ、とぼやいた。 「迷イ家ヘ、ヨウコソ」  途端に景色が変わる。倒れていた人間達は一瞬で朽ち果てて、白い白い髑髏へ。壁や地面は脈動する臓器へ。天は下界を見下ろす無数の目玉。無音は雑音へと変わり、精神を蝕む。 「一の術、感覚蹂躙。どう? あんたが何者かは分からないけど――これがあんたの敵に回した“力”よ?」  ぐちゃぐちゃと湿った音と共にカンナの背後の、先ほど破った壁――いや、最早臓器となったそれから、黒い塊が顔を覗かせる。  包帯の男は一歩引く。そして手に持ったバットを確認。手に持っているのは、誰のものとも分からない、千切れた腕。男は驚いてその腕を取り落とす。腕は脈動する地面に落ちると、湿った音を立てて砕け散った。  カンナが一歩踏み出す。 「さあ、蹂躙してあげる。腕がいい? 足がいい? 頭がいい? 言った通りのところから綺麗に殺してあげる」  亀裂から這い出した黒い塊が包帯の男の足を縛り付けていた。どんなに力を入れても解けはしない。 「……お前は、何だ?」  包帯の男が絞り出した声。カンナは笑いながら答える。 「裁定者、樋沼カンナ」 「そうか。どうやら俺の探している奴じゃないらしい」  包帯の男はそれだけ言うと、懐から引き抜いたナイフを右の内腿に突き刺した。 「ずぁ――ッ」  くぐもった叫び。しかし男の視界は戻ってきた。黒い塊なんて存在していないし、壁は壁で天は天。バットは腕なんかじゃないし、ましてや砕け散っているわけがない。正しいのは、内腿にナイフが刺さっている事実のみ。  カンナは驚いたように目を丸くする。 「な――なんで術式介入せずにいきなりそんなワイルドな手段とるわけぇ!?」  叫びは路地裏に響き渡る。  包帯の男は右足を引き摺りながら、バットを横薙ぎに振るう。先ほどと打って変わって威力の無いそれは簡単に躱されるが、距離を稼ぐには十分だった。いつの間にか路地の出口に男が立ち、カンナは奥に押しやられていた。 「あんた、滅茶苦茶すぎるわ。退魔士の基礎とかどうなってるわけ? 自己流にしても滅茶苦茶よ」 「……俺は退魔士なんかなじゃない」  また、カンナの目が丸くなった。 「はぁ!?」  その一瞬を突いて、男は大通りに向かって駆け出した。慌ててカンナは手に持った蹄鉄ナイフを投げつける。しかし、振り向きざまに振るったバットによってナイフは弾き落とされた。 「ま、待ちなさい!」  しかし既に男は大通りに出てしまったらしい。これ以上の追跡は恐らく不可能だろう。 「……他組織でも天夜でもなく……一般人? なんなのよ、あれ。報告書にどう書けってーのよーッ!」  不機嫌な叫びが、夜の繁華街に響いた。  ついでに、叫びに驚いた黒猫は飛び跳ねた。  遠くから救急車のサイレンの音が近付いてくる――  ――ん。  どこか、知り合いっぽい叫び声が聞こえたような気がして目が覚めた。  辺りを見回す。けれど、いつもと変わらない静かな寝室。夢でも見てたのか。そう思って上半身を起こす。ひんやりとした空気。早く春にならないものか。ぼんやりとした思考ぐるぐると巡っていく。  そしてはたと気付く。 「……寝なおそう……明日、学校だ」  体を寝かせ、毛布を引っ張ってみるが――何故か重い。どっかに何処かに引っ掛かったのか。そう思って二、三度毛布を引っ張るが、その重みは消えない。もう一度体を起こして、足元を確認してみる。なにやら、そこには丸くなった塊が一つ。茶色いそれは僕の足を枕にして、気持ち良さそうに寝息を漏らしていた。  目は半開きで、よくよく見れば涎まで垂らしている。  ……ちょっと怖い。  間の抜けた鼾を聞いている内に、何だか眠気が飛んでしまった。目覚まし時計を確認する。五時を少し過ぎた頃合か。少し早いかもしれないけど、もう起きるか。枕にされている足を起こさないようにしてゆっくりと布団から出す。枕代わりがあってもなくても特に気にした様子はなく、子犬は腹を上にして布団の上に転がった。……寒くないのだろうか。  それからできるだけ静かに布団から出る。 「さぶっ」  呟いてから、まだ薄暗いリビングへ。暖房器具も眠っているので、当然寒い。 「ストーブは、と。うわ、灯油入れ忘れてる」  寝る前に切れたのは覚えていたが、入れ忘れてるとは思わなかった。しかも入れようと思ったら、灯油自体買い忘れていた事に気付く。ガソリンスタンドって今の時間開いてたっけ。……いや、少なくとも近くのスタンドは開いてない。  仕方ないので暖房を付ける。  今日の帰りにでも買って帰ろう。荷物、重くなるだろうなぁ。  ……まぁ考えても仕方ない。早く起きてしまったし、久し振りに凝った料理でも作ろうか。一品、二品ぐらいなら弁当のおかずも作れるだろう。材料も十分にあるので、これだけあれば昼飯は十分豪華になるだろう。……もう一人分ぐらい作れるかもしれない。  ――もう、一人分ぐらい。 「……いや。さすがに勝手に作ってあげるってのは不味いかな」  どうしたものか。  って、何でアヤメに弁当を作っていこう、なんて話になってんだ。朝食を作ろう。弁当はいつものように一人分で。  ……  そう思っていたのに、作りすぎてしまった。夜の分を残すにしてもこれは多すぎる。  時計を確認。現在時刻は七時五分。朝の内に大量に詰め込めば……いや、さすがにそれは勿体無い。ふと、足元で茶色い塊が僕を見上げていた。尻尾を振って、何かを期待するように。いや、さすがにこの量は無理だろう。子犬には。  しかし餌を欲しがっているのは明確なので、アヤメから預かったドッグフードを出してやった。 「はー……仕方ない」  自分の弁当箱と、普段あまり使ってないもう一つの弁当箱を取り出して詰め込む。  いざとなったら……不本意だけど樫月に食わせればいいや。  そう思って、思いなおす。  やめた、アヤメが食べられないなら穂積さんに渡そう。樫月にやるよりかは――幾分マシだ。きっと。  詰め終えた頃には子犬はこちらを見上げて尻尾を振って何かを待っていた。ドッグフードが足りないのかと思い、皿についでやるが、食べる気配は無い。カバンを取り出して教科書を詰めている間にもずっと付回してくる。  朝食を摂っている間も、見つめてくる。 「もしかして、遊んで欲しいのか?」  子犬は、わん、と一際嬉しそうに声を上げた。どうやら遊んで欲しいらしい。  ……どうしようか。  あまり小動物と触れ合う――と言うか遊んだ経験がないので、何をすればいいのか分からない。分からないので、触ってみる。手を伸ばすと腹を上にして床に寝転がった。そのまま前足を伸ばして、そう、前足を伸ばして子猫のようにじゃれてくる。子犬は楽しそうだが、何か、何か違うような気がする。  そう言えば。  アヤメがドッグフードと一緒に渡してくれたゴムボールの事を思い出した。それを取り出すと、子犬は嬉しそうに息を荒げて尻尾を振る。 「よし……」  試しに壁際まで投げてやった。弾んでいくボール、駆けて行く子犬。――そしてフローリングの床で足を取られた子犬は横倒れになってそのまま滑り、壁に激突した。しばらく倒れた状態で動かない。  だ、大丈夫かな?  心配していると、子犬がバッと立ち上がった。そしてそのまま器用に前足を使ってボールを転がし始めた。そう、子猫のように。 「何か色々間違ってる気がするな、これ」  アヤメから貰った道具の数々を取り出してみる。骨っこに犬用のジャーキー、リードと首輪、マタタビの枝、ネズミの玩具、……なんでエリザベスカーラーまで入ってるんだろう。……色々間違ってる。  脳裏に、薄暗い部屋の中でマタタビやネズミの玩具でこの子犬と遊んでいるアヤメの姿が浮かんだ。  ……色々違う。  しかし子犬は満足しているようで、僕の取り出したネズミの玩具に飛び掛ってじゃれ付いて来た。 「ま……いいか」  それに釣られてネジを巻いて動かしたりして遊んでやる。 「あ」  気がつけば――八時を過ぎていた。  日々が振り撒くのは怠惰の罠。  罠が齎すのは絶対的な致命傷。 ---- [[一覧に戻る>小説一覧]]

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