高良みゆきは憂鬱だった。
いつもとなんら変わりない放課後、午後三時半ごろのことで、天気こそ今朝の予報
どおりからっと晴れていて清清しいくらいではあったのだが、それとは相反して
彼女はブルーを通り越してそろそろ紺色にさしかかってしまうのではないかと
いうくらいに憂鬱だった。
「はあ……」
とぼとぼと道路脇歩行者通路を歩いていても、小さいため息ばかりが出てしまう。
それは学友の柊姉妹や泉こなたからはあらゆる才能の権化と言われることすらあり、
事実方々でエキセントリックな活躍をしている彼女にも勿論苦手なものがあるから
であって、今日はこれからそれと真正面から対峙しなければならなかったからだ。
ボカして言うにはあまりに小規模な問題なのでもうバラしてしまうが、彼女は
歯医者が大の苦手である。しかし『小規模な』、というのは周りの身勝手な主観から
おける意見であって、彼女にとってはここ最近見なかった死活問題であった。
もはや苦手を通り越して畏怖の対象である。悪魔の化身である。魔王である。
大げさだとは思うが彼女にとってはまさにそうなので納得していただきたい。
虫歯は痛い。これはもう、ここまで放っておいた自分が悪いのだから仕方がない。
しかし、歯医者にも行きたくない。
あの独特の空気、薬品のにおい、そして治療にあたって必然的に聞くことになるドリルの音。
それらすべてが苦手であったし、待合室でかかるイージーリスニングのCDも『これから
あなたに起こることは決して痛くないですよー』という見え見えの嘘八百を並べ立てているようで、
余計にみゆきを不安にさせるのだった。
「うう……」
病院の自動ドアの前に立ってすでに十分。
「どうしましょう……」
そんなことを言って右往左往するのだが、そろそろ入らないと周りの視線も痛い。
それにここで帰ったら、またあのおっとりした母親が出張歯科医にもしもしコールを掛けかねない。
でも、でも……
「ううー……」
「あれ、ゆきちゃんどしたの?」
「ひゃうう!?」
「きゃあ!?」
驚いたのは二人ほぼ同時だった。
普段ほとんど出さない悲鳴をあげて振り向くと、よく見知ったちんまいクラスメイトがいた。
柊つかさだった。頭をおさえてぷるぷる縮こまっていた。
「つかささん……すみません、おどろいたもので」
「う、うん。私もごめん……あー、びっくりした」
どうやら本当にびっくりしたようで少し涙目である。
ヘタをすると小学生にも間違われそうな幼い顔と慎重が愛らしい。
なんとか深呼吸で落ち着いて、つかさは胸を押さえながら言った。
「ふう……びっくり、だったよ」
「す、すみません……」
「い、いいっていいって。ところで私、歯医者さんに来たんだけど。ゆきちゃんも?」
「ええ。……その、怖くて入れなくて……」
「ゆきちゃん、本当に苦手なんだね」
私もだけど、と頬をぽりぽり。そういえば今日は朝から頬をおさえていた気がする。
「……」
これは天の助けかもしれない。
うん、とみゆきは力強くうなづいた。
恥ずかしいけどこの際仕方がない。緊急事態だ。
「つかささん、ちょっと」
「え?わわ」
つかさの腕に、自分の腕をからませた。思いっきり。
「すみませんが、ちょっとその、怖いので。できればご一緒に……」
「う、うん。ゆきちゃん、ホントに歯医者さん苦手なんだね」
あまりに子供っぽいとは自分でも思ったけど、やっぱり苦手なものは苦手。
つかさの体にぴったりくっついて、おっかなびっくり、綺麗なガラス張りの自動ドアをくぐった。


海の静かな静かな波の音は、心を落ち着けてくれる。
遠くからカモメの鳴き声が聞こえる。船の蒸気の音がする。
何かが跳ねた。イルカだろうか。海は静かな、素晴らしい音楽で楽しませてくれる。
ただし、それが待合室のCDプレイヤーからかかっているものでなければ。
「ううう……」
「ゆきちゃん、だいじょぶ……?」
正直に言うとあまり大丈夫ではない。
つかさの腕に必死にしがみついて、体を縮こませて、みゆきは声を震わせた。
「ゆきちゃん」
「はあ……大丈夫、です……」
なんとか笑みを作って顔を上げた。
受付をすませてから、みゆきはずっとつかさに体を預けていた。
実はこの間の診察で、どうやら自分の歯があまり芳しい状態でないことが発覚し、
今日はドリルで削ることになっていたのだ。
小学生のころ、一度だけ体験したあの痛み。
思い出しただけで……
つかさの腕にしがみついていなければ、とっくに逃げ出していたかもしれない。
その温かさは、少しだけではあったけどみゆきを安心させてくれた。
「ゆきちゃん」
「ええ、ええ。大丈夫、です」
なんとか笑みをつくった。ずり落ちた眼鏡をなんとか直した。
あいかわらず独特の圧迫感がある空気、薬の匂いがする空間。
CDの音楽は次のトラックに移って、風の音に馬が駆ける脚音が流れていた。
気を紛らすように、絡めた腕に力をこめた。
少しずつ、少しずつ不安が消えていくような気がする。
小さく息を吸い込んで――
「高良さん、高良みゆきさーん」
「はう!」
受付のお姉さんの軽い声に全身で反応する。
それに驚いたのか、つかさも『びくっ』と体をふるわせた。
「ゆ、ゆきちゃん。ほら、呼ばれたよ」
「あの、その、でも」
つかさがそっと腕をほどこうとする。それを追いかけてしまう。
腕を放すと、さっきまでの大きな不安が一度に押し寄せてきて、また
泣きそうになってしまった。
「だいじょぶだから。ほら、待ってるよ。看護婦さん」
「……はい」
「大丈夫ですよ。怖くないですから」
にこやかに言う看護婦さんの言葉がどこまで本当なのか心配だった。
ぎこちない動きでゆっくり立ち上がって、大きく深呼吸した。
「ゆきちゃん、ファイト!」
「ふぁ、ふぁいと……」
診察室のドアを閉めるとき、つかさの何かを考えているような顔が見えた。
中に入ると、もうすっかり顔なじみのお医者さんがにこやかに手を振った。
「こんにちは、高良さん」
「こ、こんにちは」
「あはは、そんなに固くなることないよー。思ってるより痛くないから」
そうは言うが、やっぱり怖いものは怖い。
さばさばした気のいい若い女の先生で、みゆきも好感を抱いてはいたのだが、こういう
ときにはやっぱり無意識に警戒してしまう。
「じゃ、椅子にかけて、口ゆすいでください。まずこないだ入れた詰め物取るからね」
体をがちがちにこわばらせて椅子にかける。すぐに治療が始まった。
緊張させないようにだろうか。診察室の中でもやはりあのCDがかかっていて、
それが逆にみゆきを不安にさせる。
先生の軽いトークで少し落ち着いたが、もうすぐドリルで歯を削られるのが
わかっているから気が気じゃなかった。
「それじゃ、削りますね」
「えぅ!」
「あ、こぉら。口閉じないの」
「えぅぅ~」
「んー。困ったわね……」
先生が本当に困った顔で頭をぽりぽり掻いた。
患者の意思を尊重しないで、ムリヤリ治療するというスタンスはとらない。
いい先生であるのには間違いなかったが……。
みゆきは気付いていなかったが、彼女はもう、少しだけ泣いていた。
子供っぽいとか高校生にもなってとか言われてもいい。
とにかく、削られるのがイヤだった。
「えふ、えふ……えぅ」
恥ずかしい。申し訳ない。少しだけ顔を赤くして、ぽろりと涙がこぼれた。
んー、と先生が唸っていると、どこかのドアががちゃりと開いた音がした。
「あら。あなた、高良さんのつきそい?」
「はい、あの。すみません、仕事中に。ゆきちゃんが怖がってるんじゃないかと思って……」
……つかささん?
「あの、ちょっとだけ、いいですか?」
「んー……まあ、いっか」
先生が軽い調子でOKを出した。
つかささん、診察中に何を……
わ、わ、わ、恥ずかしい。こんな顔、見られたら。
そう思った矢先、みゆきの横につかさがひょっこり顔を出した。
「あふ、つ、つかささん……」
「えへへ。来ちゃった。ゆきちゃん、すっごく怖がってたからね、応援」
応援?
思った瞬間、みゆきの左手がぎゅっと握り締められた。


「あ……」
「ごめんね。これくらいしかできないんだけど」
「……」
温かい。つかさの指。つかさの体温。
さっきのように腕をからませていたのとは違う。
てのひらとてのひらを直接重ねると、じんわりと体中が温かくなる気がする。
なんだか、ひどく安心した。
「……」
「……だいじょぶ?ゆきちゃん」
「はい」
恐怖がうすれていく。
がちがちだった体がほぐれていく感覚。
「先生。あの、お恥ずかしいのですが、このまま治療していただけますか」
「へ?」
「このままなら、私、大丈夫みたいです」
「ゆきちゃん」
つかさが少しだけ驚いた顔をしていた。今、すごく恥ずかしいことを言った気がする。
ちら、とつかさの顔を見ると少し赤くなっていた。多分、自分も同じような顔をしていると思う。
でも、本当のことだ。今この手を離されたら、きっとまた怖くなってしまう。
重なったてのひらに、ぎゅっと力をこめた。
「んー。……やったことないけど、まあいいか。それじゃあ、えーと。柊さん。悪いけど、高良さんの
 手、握っててあげてくれる?」
「あ、はい!」
つかさが微妙に甲高い声で返事をした。
ちゅいーん、というドリルの音。怖かったけど、さっきほどじゃなかった。
がりがり、っていう自分の歯を削られる音も、その痛みも、左手の温かさに身をゆだねていると、
本当にそんなに痛くない気がした。
それでも何回か体を震わせて、つかさの手を思い切り握り締めてしまったのだけど。
最後に奥歯にまた詰め物をして、治療は終わった。


「……はい、それじゃあ、二人ともおしまい」
「ありがとうございました……」
「ありがとう、ございました」
「どういたしまして。それにしても、仲良しさんなのね、あなたたち」
先生が器具を洗いながら笑った。
妙に気恥ずかしくなって、急いで病院から出た。

「……」
「……」
「あの。ごめんなさい、私のために」
「い、いいっていいって。あれくらいしかできないもん、私」
なんだか妙に気まずい。
すっごく恥ずかしいことをしてしまった、という意識が頭をぐるぐると渦巻いていた。
「あ、その、それじゃ私帰るね!」
つかさが落ち着かない様子で手をばたばたした。
「はい。それじゃ、あの。また、明日」
「うん、また明日!ばいばい!」
顔を真っ赤にして走っていってしまった。
その背中を、みゆきは見えなくなるまでじっと見詰めていた。
左手を見た。もうつかさの体温は感じられなかったけど、なんだか胸があったかかった。
「……」
今度から。
「今度から、一緒に来てもらいましょうか」
ぽつりとつぶやいた。半分本気で、半分冗談のつもりで。
すっごく恥ずかしかったけど、でももし、治療の度につかさに手を握ってもらえたら。
そして、つかさが怖がっているときに自分がその手を握ってあげられたら。
「手を、握れば」
手を握れば、どんなに怖いものもきっと怖くなくなる。そう思った。

おわり



コメントフォーム

名前:
コメント:
  • やっぱり つかさはイイ子すなー。このカプは癒される -- 名無しさん (2011-04-12 01:59:49)



|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|
添付ファイル
メニュー


■検索フォーム
入力した単語を含むページの検索を行います。



  • Counter: 12790
  • today: 1
  • yesterday: 1


更新履歴

2012-02-12

2012-02-11

2012-02-10

2012-02-09

2012-02-07

2012-02-06

2012-02-03

2012-02-02

2012-02-01

2012-01-31

2012-01-30

2012-01-29

2012-01-28

2012-01-27

2012-01-26

2012-01-22

2012-01-20

2012-01-15

2012-01-13

2012-01-06

2012-01-04

2012-01-03

2011-12-16

2011-11-10

2011-10-11

2011-09-19

2011-09-12

2011-09-06

2011-09-04

2011-09-03

2011-09-02

2011-08-03

2011-08-01

2011-07-31

2011-07-26

2011-07-18

2011-07-07

2011-07-02

2011-06-25

2011-06-11

2011-06-07

2011-05-10

2011-05-09

2011-05-08

2011-05-06

2011-05-05

2011-05-04


ここの人気ページ
トップ10 (TotalCount)



前月 2012年2月 翌月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29