人として袖が触れている 14話

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  • 14.呪われし者への哀歌[キリエ]


―これが夢じゃないはずがない。
―これは夢に決まってる。
 彼女は一枚目の手紙を破り捨てます。
 愚かな彼女。
 一度手放したヒントは、簡単にはその手には戻ってこないのに。
 だって、『少女』がそれを握りつぶしてしまうから。
 それでも神は手紙を送ります。
 いつか彼女が信じてくれると、希望を抱いて。


 オホン、と蔀戸の前で咳払いをする。
 この時代の声のかけ方だと思ってくれればいい。
「かがみかい?」
 それに気がつき、中から部屋の主……おじさんの声が聞こえる。
「文使いが文を持ってまいりました」
「うん、そうか」
 おじさんが姿を現し、日下部から受け取った文を手渡す。
「おお、恋文じゃないか……こなたに」
 おじさんの顔から笑顔がこぼれる。
 恋文なのは私にも分かっていた。
 綺麗な柳の枝にくくりつけられた文は、恋文の証。
 この家にそれを受け取る人物は、一人娘のこなたしか居ない。
 だがすぐにこなたの下に行くわけではなく、おじさんが目を通してから、という決まりがある。
 多分、日下部が宮廷の文使いから奪ってきたのかしらね。
 じゃあ結構身分の高い人からとか?
 誰だろ、そんな奇特な人は……。
「ええと、差出人は……と」
 文を開き眼を滑らせるおじさん。
「……」
「?」
 だが少し、おじさんの様子が変わる。
 笑顔が強張り、手が震えだす。
「……なた、を」
「へっ?」
 そして、何かをつぶやく。
「こなたを……呼んできなさいっ! はやくっ!」
「え、ええと……」
 突然慌て始めるおじさん。
 体の私はモチロン、上澄みの私だって意味が分からない。
「お、おおっ、おおお」
「お?」
「おそ、恐れ多くもこの文は……東宮、春宮様からの恋文だっ!」
 ……。
 一瞬で……世界が固まった。


 寝殿には、重い空気が流れていた。
 困り顔のおじさんにかなたさん。
 つかさや、顔も見えないけど私も多分同じような顔してるに違いない。
 こなたはちなみに、他人事のような顔だけどね。
 ……というか、まだ状況を理解出来てないって所ねあれは。
「いいかい、こなた。これは大変なことなんだよ?」
「へぇ」
 その重要さを先程からおじさんが熱弁してるわけだけど、まるで聞いてないわけで。
「恐れ多くもお前は春宮……次代の帝に求婚されたんだぞ!?」
 声を荒げるおじさん。
 おじさんがこれ程慌てているのには、訳があった。
 それを先程からこなたに何度も説明してるわけ。
 この平安の世界には、『鎖』がある。
 目には見えない……『身分』という鎖。
 生まれつきに強制的に決まる、解けない鎖。
 それがこの平安の世界の……貴族社会の、掟。
「あぁ、内大臣への出世も決まったという矢先になんという」
 胃が痛いのか、いつもの嗚咽も威力が違う。
 かなたさんもそれを支えるように寄り添う。
「しっかりして、そう君……きっと大丈夫よ」
「しかしかなた……これは大納言家の浮沈に関わるんだぞ?」
 これがもし、他の家なら大喜びものだろう。
 なにせ自分の娘が春宮の、次期帝の北の方に選ばれたようなものなのだから。
 北の方とは、正室の妻のこと……正妻は女御(にょうご)の中から選ばれる。
 女御とはつまり、身分の高い妻ね。ちなみに低いのは更衣(こうい)。
 この頃は一夫多妻制だから、他にも奥さんが一杯作れるわけ。
 身分の高い女性から、低い女性まで……私もその一人に選ばれそうになったと思うと気が遠くなるな。
 こなたはおじさんが大納言なんだから、女御の資格は十分。
 しかもまだ春宮にはまだ結婚の話は聞かないし。
 つまり入内して、もし日下部が譲位なんかした日にはもう。
 こなたが……中宮(ちゅうぐう:天皇の正妻)ってわけ。
 ああやばい、日本の行く末まで不安になってきた。
 まぁ……それはいい。
 それは私とはまた、別の問題だ。
 ここで問題なのは……文を受け取ったのはこなた、ということ。
「いーじゃん、断れば」
「そういう問題じゃない!」
 と、おじさんの一喝が飛ぶ。
「そう君」
「ん……っとと」
 かなたさんに収められ、一度咳払いし落ち着くおじさん。
「いいかいこなた、これは政治的な問題なんだ……断りなどしてみろ。我が大納言家は失脚だ」
 それが、所謂貴族社会。
 身分が上のものに逆らうことは、そういう事。
 謀反人の烙印を押され、官位は剥奪される。
 その累は親類縁者に及び、一門の失脚もありえるわけだ。
 私の時みたく、直接手渡しなら良かったのにね。
 それならいくらでも誤魔化せたのに。
「あぁ、大体何故春宮がうちのこなたを……何か関係でもあるのか?」
「知らないよっ。そんな人会ったことないもん」
 ……先程から顔面に鞠を無限ループさせていたとは、あえて言うまい。
 まぁこの時代は女性はほとんど顔は見せないものだから、噂を聞きつけて求婚するってのも普通にあった。
 しかし、これはどういうことだろう。
 日下部から、こなたに恋文? 何故? どうして?
 まさか、遊んであげてるうちにこなたに情が入ったとか?
 そりゃまぁ、節操のない辺りが日下部らしいけど。
「ともかく、これは大問題だ。慎重かつ速やかに……」
「あー、もういいよ。面倒くさい」
 と、そこでこなたがおじさんの言葉を遮る。
「だっ、だからこなた。これはそういう……」
「断らなければいいんでしょ? いいよ、受けるよ私」
「へっ?」
 その言葉に、その部屋に居た全員が固まる。
「それで話はおしまい、でしょ?」
 と、面倒そうに立ち上がると対屋を出て行くこなた。
 誰もそれを追いかける事も出来ない。
「つかさ、返歌書くの手伝ってよ」
「えっ、あ……うん」
 思わず素で返事をしてから、慌てて立ち上がるつかさ。
 二人が対屋を去った後も、まだおじさんは放心してるし。
 私の体のほうもちなみに……まだ放心してる。
 よほどショックだったみたい。
「……なぁ、かなた」
 ため息を漏らすおじさん。
 その表情は、暗かった。
「なぁに? そう君」
「俺は……間違ってたのかな?」
 落ち込んでいる様子のおじさん。
 かなたさんも、かける言葉に迷っている。
「こなたには普通の殿方と結婚して、普通の幸せを掴んで欲しかったのに……まさか春宮に入内(じゅだい)だなんて」
 もうすっかり聞きなれたおじさんの嗚咽が始まる。
 入内とは結婚、ひいては後宮にあがることを指す。
 後宮がどんなところかって? 知ってるでしょ、源氏物語ぐらい。
 まぁそうね……簡単に言うと、女の園よ。
 妬み、嫉みの愛憎渦巻く……っと、さすがにそれは失礼か。
 でもまぁ、正妻と第二、第三の妻の激しい夫争いみたいなのだと考えればいいわ。
 皆自分と帝の子供を次期帝にしたいわけだからね……ああ恐ろしい。
 男の嫉妬も醜いけど、女の嫉妬は目も当てられないからね。
「ええ、知ってますよ。だからいつも口喧しく言ってたんでしょう?」
「……ああ、こなたには嫌われてしまったがね」
 かなたさんに慰められるおじさん。
 そのおじさんが流す涙は、こなたへのもの。
 ……少し私は誤解してたのかもしれない。
 おじさんは、邪険にしてるようでちゃんとこなたを溺愛してるじゃないか。
 それを上手く表に出せないだけ。
 その理由は……分かんないけど。
 まぁいいか、それくらいの齟齬は許容範囲内でしょ。
 おじさんも『同じ』っと。
 ……ん? 何か心に引っかかる。
 何だろ、この違和感は。
 たまにあるのよね、これ。
「かがみ」
「……」
「かがみ?」
「あっ……は、はいっ」
 かなたさんに声をかけられ、ようやく反応する私の体。
 まだ放心してたのかこいつ。
「こなたをお願いしますね……あの子もきっと、辛いはずですから」
「あ……」
 そうだ。
 突然の事態に忘れてた。
 一番……傷ついてるはずの少女を。


―見つからない。
―見つけられない。
―違うものなんてない。
―失くしたものなんてない。
 二枚目の手紙は、彼女を苦しめます。
 彼女は嘆きます。
 永遠にこの世界に囚われるのだと、涙を流します。
 それを見て、『少女』は喜びます。
―これは罰。
―これは償い。
―これは禊。
 そう少女が嘲笑います。
 その少女の姿を見て、神はまた嘆きます。
 それでも諦めるわけにはいきません。
 期限は刻一刻と迫っているのです。


「こなた……入るわよ」
「あ、かがみ」
 戸を開けると、いつもの笑顔がそこにあった。
 憎らしいぐらい、いつもの笑顔。
「ほら見てよっ、いいの書けたんだっ」
「え、ええ……」
 渡された文には、こなたの字が並んでいた。
 でもそれを受け取っても、目を通すことはない。
「ねぇこなた、いいの? 求愛の返歌を書くってことは……」
「うん、分かってるよ」
 部屋にはもう一人居た。
 一緒に部屋を出て行ったつかさだ。
 そうよね……つかさも同じ事を聞いたに決まってる。
 求愛の返歌。
 つまり「結婚してもいいですよ」と、返事をするわけで。
「だって断ったら、父さま大変なんでしょ?」
「そう……だけど」
「なら、いいんだ。父さまの力になれるなら」
 もう一度笑顔を見せるこなた。
 でも伝わってくる。
 彼女の……強がりが。
 本当、意地っ張りなんだから。
 こなたも、おじさんと同じだ。
 おじさんの事が好きなのに、それを上手く伝えられない。
 だから、こんな不器用な形になってしまう。
 そう、こなたも同……ん?
 おじさんの時にも感じた違和感が、また顔を出す。
 だからなんなのよ、さっきから!
「入内は……いつ頃かな」
 窓から少し、遠い目で外を見るこなた。
 少し陽も落ち始め、空も陰って来ている。
「正式な婚約状がすぐにでも届いて、それに返事をしたら……すぐだよ」
「……そっか」
 つかさが返事をする。
 男性が求愛の文を送り、女性がそれに求愛の返歌をする。
 あとは早いもので、陰陽道(おんようどう:平安時代の占い)でまずは日にちを決める。
 それまでに道具を新調したり、日程を合わせたり。
 そして男性は三日間女性の下に通い、まぁ色々するわけよ……情事を。
 それで三日目に三日夜の餅を食べあって、露顕(ところあらわし:披露宴のこと)をすれば……晴れて夫婦ってわけね。
 だからそうね、早くて一週間から十日程度ってところかしら。
「今までありがとね。二人とも」
「こな……ちゃん」
 こなたが頭を下げる。その言葉につかさがとうとう泣き出し、こなたに泣き付く。
「ごめんね、つかさ。いっつも稽古逃げ出してさ」
「うぇ……ひっ、く。ぅぅうう」
 泣きじゃくるつかさ。それをあやす様に頭を撫でるこなた。
「かがみも、一杯迷惑かけちゃったね」
「……」
 こなたがつかさを撫でながら、私を見る。まぁ……仕方がないわよね。
 断ったら、大変なことになるんだから。その辺ぐらい、私の体だって分かって……。
「……や」
「えっ……」
「そんなの……嫌っ!」
 声が、こなたの部屋に響いた。
 聞き覚えのある声は、他の誰でもない……私のものだ。
 その言葉とともに溢れた涙が、私の視界を歪めた。
「か……がみ?」
 こなたが目を見開いている。
 いつも生真面目に仕事をこなす私。怒りっぽい私、厳格な私。
 その中のどれにも……こんな泣き叫んだ私は、居ない。
 そうだ……私は好きだったんだ。狂おしいほどに……ただ、こなたが。
「……っ」
「あっ、か、かがみっ!」
 こなたの制止も聞かずに、私の体は踵を返す。
 まだ涙は止まらない。
 その泣き顔を、こなたに見られたくなかったのかもしれない。
 そのまま、部屋を飛び出し……ただ、逃げた。ただ走って……涙を零した。
「みぎゃぁ!」
 駆け出した私が次に止まったのは、何かにぶつかった時だった。
 矢のような勢いで突っ込んだ私の視界に広がったのは、ラベンダー畑。
 ……だったら良かったんだけど、生憎ただの紫。小憎らしい……紫の束帯。
「か、かがみ?」
「……」
 涙で歪んだ視界に映るのは、夕焼けに光る八重歯。
 こいつ……まだ居たんだ。
 今回の事件の発端……春宮様だよ! 不人気やーい!
「えっ、あ……」
 私の泣き顔に気がついたのか、慌てる日下部。
 そのまま逃げようとした私の手を掴む。今度は……逃がしてくれないみたい。
「離し……て」
 泣き顔を見られたくないのか、顔を日下部から背ける私。
 まぁ、もう見られてるわけだけど。
「は、離せってなぁ……」
「いいから離してっ!」
 それでも日下部の手は離れない。
 ああもうっ、少しくらい人のことを……。
「お、落ち着けってほらっ」
「あ……」
 その時だ。
 暖かい何かが私を包む。
 その懐かしい感触は、つい最近味わったのと同じ。
 日下部の……抱擁。
 それにとうとう耐えられなくなり、私の体が日下部に預けられる。
「んなっ、お、おいっ!」
 もちろん、日下部も真っ赤に。
 一応二度目のはずだが……さすがに最初の時のようにはいかないらしい。
 まぁともかく、泣き喚いたわけよ。
 日下部の腕の中で、みっともなく。
 わ、私が。じゃないわよ! 私の体が、だからね!


 どれくらい泣き続けただろう、日下部の腕の中で。
 気がついたときには私の部屋で……空には月が出ていた。
 日下部が連れてきたのか、まぁ外じゃあ人目につくわよね。
「あ……と、ごめん」
 窓から指す月光が、私の時間だと教えてくれる。とりあえず日下部から離れ、涙を拭く。
 私が流したものでないとはいえ、少し恥ずかしい。
「もう……大丈夫か?」
「ん、まぁね。ありがと」
 一応お礼を言っておく。ずっと何も言わず慰めててくれたわけだしね。
「……あっ、とと、も、もう暗くなっちゃったか。そろそろ帰らなきゃ」
 空気に耐えられなくなったのか、慌てて立ち上がる日下部。
「ごめん……引き止めちゃって」
「いいっていいって、まぁその……役得ってことで」
 頬を染め、照れる日下部。
 そういや……文、くれたんだっけ。まぁ、貰わなかったわけだけど。
 その女性に泣きつかれたんだから、悪い気は……。
 ん? はて、何か忘れてる。
 そうだ、何で私が泣いてたかってこと!
「ちょ、ちょっと待って!」
「ん? どーか……みぎゃぁっ!」
 出て行こうとしていた日下部の襟首を掴み、もう一度部屋に引きずり込む。
「あんた、あれ……あの文は何よ!」
「文? んああ、ちびっ子の?」
 と、呆けた顔で言いやがった!
「あー、まー何つーの? いい加減正室作って身を固めろって五月蝿くてさー」
「それで、なんでこなたなのよ!」
「いや別に、知り合い見回したら結婚してないのちびっ子ぐらいだったから」
 うう、この短絡っぷり……まるで進歩なしかよ!
 はぁ……でも裏は取れた。
 どうやら本気らしい。
 残念だったわね、私の体。
 これでこなたとは、お別れ。
 まぁ永遠にってわけじゃないからいいでしょ?
 後宮に押し込められたって、別に外出できないわけじゃない。
 時間を見つけて遊びに来るぐらいは多分、出来るはず。
 ……あくまで多分ね。
「ってゆーかこなたはあんたが春宮って知らないじゃない」
「あーまぁほら、驚くちびっ子の顔でも楽しみにしとこっかなー」
 とケラケラ笑う日下部。
 そりゃ驚くわよ、まさか散々酷い扱いしてた雑色のもとに嫁ぐなんて!
「ん? ……あー、もしかして泣いてたのって?」
 そこまで来て、ようやく日下部が気がつく。遅ぇーよ!
「まぁ……そんなとこ」
「あはは、なんだ。意外と寂しがり屋なんだなー」
 と、悪戯に笑い私の頭を撫でる。
 悪かったな!
 てゆーか私じゃないし!
 私の体よ、体!
 そりゃ、私も驚いたわよ。
 あんななりふり構わず泣き叫ぶなんて。
 そんなの全然、私らしくない。
 そうよ、私は上澄み。
 私の体とは、『違う』!
 ……。
 ん?
『違うものを恐れてはいけません』
 あ、あれ?
『それは貴方に鍵を与えてくれるでしょう』
 あれ、あれ?
 あれれ??
『こなたが好き? 馬鹿ね、相手は女の子じゃない』
『私もそりゃ嫌いじゃない。
 好きではあるけど……さすがに愛だの恋だのって感情じゃない』
『狂おしいほどに、ただ……好きなんだ』
『かがみはむしろもっとロマンチックじゃね?』
 ちょ、ちょっと待って。
 一瞬で大量に頭の中に情報が入ってくる……最後のはなんだ最後のは!
 こなたはおじさんの事が好きだった。
 おじさんもこなたの事が好きだった。
 結局、『同じ』じゃないか。
 じゃあ、考えから省こう。そうしろってのが三枚目の手紙よね。
 そしたら残るのは、何? もっとも違うものは、何?
 ……そう、もう何も残ってないはずだった。
 ある一つを除いて。
 どうして忘れていたんだろう。
 どうして気がつかなかったんだろう。
 答えは最初から……突きつけられていたのに。
『私はいわば、上澄み』
 そう、上澄み。
 まるで水と油。
 その二つは、決して混ざり合うことはない。
 だって。
 だって――『違う』のだから。
 見つけた。
 ようやく見つけた。
 ……見つけてしまった。
 違うものは……『私』だ。 


―きっと彼女は気づいてくれる。
 神はそう信じます。
―気づくはずがない、あいつには。
 少女は嘲笑います。
―きっと彼女は見つけてくれる。
 神はそう祈ります。
―見つけられるはずがない、あの曇った眼では。
 少女はそう蔑みます。
 二つの思いが交錯し、運命という名の渦を作ります。
 その運命に巻き込まれたのは、愚かな彼女。哀れな彼女。
 しかし彼女は立ち上がります。
 運命に抗うと、心に決めたのです。
 そんな彼女に三枚目の手紙は『最後の』ヒントを与えます。
 そして彼女はとうとう手にしたのです。
 全てを開く、『鍵』を。


「はぁ、っはぁ……」
 口から荒い息が漏れる。
 私の部屋から全速力で走ったんだ、それくらい当然だろう。
 しかもこんな遠くまで、ね。
 日下部は置いてきちゃったけど、まぁいいわね。どうせ勝手に帰るでしょ。
 そして息を整え、一度咳払いをする。
「……誰?」
 それに反応して中から声が聞こえる。
 私の動悸が一層激しくなるのは、走った所為だけじゃない。
 開く扉がまるで、スローモーションに感じられる。
 私は今から、対峙する。
 それが『誰』で、『何』なのかはまだ私には分らない。
 でもそれは、今まで理不尽に感じ続けてきた……『違和感』の正体だ。
 私はいままで、二種類の違和感に駆り立てられていた
 こっちの世界でつかさや日下部に初めて出会ったとき感じた違和感。
 つまり私が直観的に感じた違和感ね、服装だったり性別だったり。
 そして、もう一つあったでしょ?
 そう、時たま顔を表す……あの不条理な違和感。
 今日だって、何回もあったわよね? 原因の分からないのが。
 そう……その後者こそ、私が求め続けたもの。
 私の体――『違う』私が与えてくれた、『鍵』だったんだ。
 それは私の推理……でも、確信だ。
 そうだ、と本能がそう教えてくれる。
 今から出会う彼女……いや、もうそれが本当に本人かすら今は分らない。
 でも彼女こそが、その『鍵』が導いた一つの答え。
 思い返してみれば簡単なはずよ。
 その不条理で理不尽な違和感が……『どんな時』に首を出すのか、ってね。
「あ、と……」
「?」
 慌てる私の前で、目の前に居る人物が首を傾げる。
 こんな夜に押し掛けたんだ、驚いて当然だ。
 さぁ、言え。
 言うんだ。
 決めたじゃないか、諦めないって。
 その為には何だってしてやるって!
「あ、貴方は」
 声が震え、裏返る。
 心臓が破裂しそうなくらいに脈打っている。
 落ちつけ……クールになれ私!
 これはきっと、トリル。
 運命への……反撃の顫動音なんだ!
「貴方は……誰?」
「……」
 その言葉が辺りを静める。
 そしてゆっくりと……。
 まるでそう、全てを見通す神のように。
 慈愛の笑みを浮かべた。


(続)













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