“おいしい村”はどこを目指す?

“おいしい村”という題名はもともと、僕が2002年のイタリアで出会った言葉“IL BUON PAESE”の(僕の)誤訳だ。この言葉は、googleの自動翻訳(イタリア語→英語)であたると“THE GOOD COUNTRY”となるのだから、日本語なら“善き国”とでも言うべきところだ。

その当時、僕はこの言葉にとても良い響きを感じ、直感的に“おいしい村”としてしまった。なぜか自分の心に落ちて定着して、その時点で新しく生まれた言葉、としておきたい。同様に“terroir”という言葉(フランス語)も勝手に“土地の記憶”と決め込んでいる。

僕は都会に住んでいて、“おいしい村”のような場所に暮らしているのではなく、だから“おいしい村にいらっしゃい”と誘っているのではない。この語感が誘う“何か”を探したいと思っている。見つかることのない場所かもしれないし、どこかでそんな場所に出会えたら、終の棲家と決め込んで、民宿“おいしい村”、居酒屋“おいしい村”(屋台村か!)でも始めて老後を過ごすかもしれない。今のところは、この言葉にずんずん引き寄せられている真っ最中で、はっきりこれとは言えない状態ではあるが、たぶんフーコーの示すとおり、最初にディスクールありきなのではないかと断じて、この言葉が最終的に幻想で終わるとしてもよしとして、“おいしい村”をさがす心の旅を開始しようというわけなのである。

~考えよう~

“おいしい村”が何を示すか、どこを目指すかを考える場所として“think about,
”を立てた。ここは特に範囲を決めず、僕の興味の流れる場所になる。言葉が生まれる場所が必要だからだ。ここは空想でよい。ヘンな言い方だが想像力を“おいしい村”という命題で鍛えたいのだ。昔の記憶も取り戻しつつ、芸術や思想、そして評論の領域に自分の立脚点を取り戻す努力を再開したいのだ。少しずつ“おいしい村”とは何か、に言及して行きたい。


~料理をしよう~

そして僕の身体が、思考だけでなく“食”も西欧化している意味を考える場所として“gastronomyを立てた。日本と西欧を行きつ戻りつする僕の思考と“食”の嗜好。この嗜好についても範囲を限定しない。ただし理由付けはされていくだろう。なぜなら、確かに現代の“食”は自由極まりないが、僕の場合有機農業や環境問題など、相当に刷り込まれた体になっており、その狭い了見で食べ物を選択し、料理もせずに薀蓄を垂れている自分をどれだけ解放できるかを詰めて行きたいのだ。その呪縛からどれほど自由になれるかが“食”とりわけ自分で“料理”する行為により進むと思うのだ。思考と思考は矛盾しないことを考えていきたい。

~旅をしよう~

“おいしい村”は本当にあるのだろうか?幻想なのだろうか?身近な場所に現実の“おいしい村”も同時にさがす。できるだけ色々な風景、人、記憶を辿り、自分の想像の反対側から、実は“涙”したい。自分の想像力が挫折してもいいから、“泣くほどの”人や自然や風景、文化に、本当に出会うことを切望している。それが“walk around,”になる。
実はシゴト上、もう15年ほど日本各地の農村を回ってきている。僕がこのシゴトに就いた当初に味わった感動もさすがに、様々に色褪せてきてはいる。その意味で時間はとても酷い。美しき農村の風景、額に汗する農家の方々。想像力が挫折する可能性が大きいのだが、その原点価値は不変として、もう一度“失われた環”を結びなおす。
ここが勝負の場所なのだと思う。
最終更新:2007年05月02日 01:48